神の仕事(4)

部屋に飾ってある百合の花が、すべての蕾(つぼみ)を開かせて、最後の花びらを落とした。

蕾は4つか5つ、あった。

固い蕾もあり、すべて開くか心配だった。

途中で茎が腐って、開かずじまいの蕾もあるのでは…と案じた。

ひとつひとつ…蕾が開くたびに心いやされ、感謝だった。

夏場でもないし、水を取り替えもせず、花瓶に生けたきり…。

最期のひと花まで見事に咲き誇り、散った。

見事な散りざまである。

花の蕾が膨らんで開き、散る…。

「自然の営み」である。

「自然」ということを、我々は、悩みも努力もなく、「あたりまえ」のように受け取っている。

男と女が性交渉すれば妊娠して子どもができる。

子どもは成長しておとなになる。

これは、果たして、あたりまえ…だろうか???

目が見えるのも、耳が聞こえるのも、頭で考えられるのも…不思議ではないのだろうか?

「花」というものは「美しい」と相場が決まっているが、花はどうして、美しいのだろうか?

検索してみると、以下のようにある。

おしべとめしべが子孫を残すために受粉するのに、動物に花粉を運んでもらう植物の花は美しい色をして目立つものが多い。 逆に風に運んでもらう植物の花は動物を呼び込む必要がないため、目立たなく、美しい色や形をしたり、よい香りを出しているものはほとんどない。 花が美しいのは動物を呼び込むためである。

誠に自然の営みで、理にかなっている。

しかし、

植物が、受粉するのに、動物に花粉を運んでもらうため、美しい花を咲かせたり、よい香りを放とうとするものだろうか???

被造物である植物に、そのような意志はない。

意志のある人間であっても、目も耳も鼻も口も……すべて生まれながらに備わって、機能するのである。(機能しない場合は、病気や障がいと称される)

「神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです」

(「ローマ人への手紙 1‐20)

弁解の余地のない「彼ら」とは、神を信じない未信者を指すのだが、「自然=被造物」に着目すれば、その恵みと豊かさに、「創造主」を無視することはできないのではなかろうか?

「あたりまえ」ではない、「神の仕事」ということに、改めて着目したい。