神の摂理(1)

秋の初め、知り合いから庭でとれたという梨をいただいた。
梨なんて、水っぽい果物だと思っていたが、しみじみとした甘さが口の中に広がり、まさに水菓子(=果物)その優しい甘さは夏の疲れを癒してくれるようだった。

食欲の秋…も深まり、梨に柿、葡萄、蜜柑、柚子…
果物見ながらしみじみ思う。

食べて美味しくて、(それぞれ味わいが違う)見た目にもそれぞれ、美しく、
その上、
栄養がある。

春になれば苺が、夏になれば桃にメロン…。
なんか、すごい。
過剰サービス!!!
ここまでやる…?
などとケチな私は思ってしまう。
食べて美味しかったらええやん。同じ形でええやん。
「果物」という1種類だけでええのに。
魚も肉も野菜も…同じことが言える。
そうして…こんなふうに、代償も求めず、惜しみなく与えるのが神様なのだなぁ、と思う。
間違いなく、私たちは神に愛されているのだと。
星野富弘の新刊「あの時から空がかわった」に、こんなエピソードが書かれていた。
チューリップの形をした花瓶を見ながら、作者はこんなことを思う。
ワイングラスのようなチューリップの花に水を灌(そそ)いだら、どうなるのだろう。花壇に咲いているチューリップに雨が降ったら、花に水が溜まってしまうのではないか。
水が口元までいっぱいになり、重そうに揺れるチューリップを見てみたい。居ても立ってもいられなくなったものの、時は冬。春を待つより仕方なかったが、
「すでに神様は私に、素晴らしい春を用意しておいてくれた」その年の春、長崎のハウステンポスにある美術館で展示会をすることになっていた。
その時期、ハウステンポスでは「チューリップ祭」が開催され、十万本のチューリップが咲いている予定であった。
ところが、展示会初日、作者が無数のチューリップに囲まれた展示会場の入り口に着いた途端、先が見えないほどの大雨になった。
雨の中のチューリップを見たいと思ったが、車から降りることもできない土砂降り。ようやく雨が止んだので花壇に行き、花を覗き込んだ。
花は花弁を閉じていた。

雨の前兆を察して、花の中に雨が入らないように閉じたのに違いない。
「すべての生き物を愛されている神の摂理を思わずにはいられない」
花というものが、ほとんど例外なく美しいのも、神の摂理、神の愛を思う。
生まれた人間が誰一人として、同じ人生を生きることはないのに、人生の終わりが「死」であることから、誰一人として免れない。
それも神の摂理というしかない。ならば、「死」は終わりではない。「死んでおしまい」のはずがない。と、思わずにいられない。