障碍者の家族は不幸なのか(4)

「亜由未が教えてくれたこと」映像を見てくださった方々…。
ありがとうございます。見てくださったなら、もう私はこれについて語ることはありません。
仮に障碍者の家族は不幸」だとしたら、
障碍者でない家族は幸福」だろうか?
「幸福」か「不幸」か、判で押すような単純なものではあるまい。
苦しみや苦労…があってこそ、それを免れた時、乗り越えられた時の喜びは大きい。
逆に恵まれていると、感動も感謝もなく、満足できない。
「ありがとう」の反語は「あたりまえ」らしい。

「ありがたい」=「有り難い」から感謝の念が沸くのであり、「あたりまえ」のことには感謝などしない。
毎日「ご馳走」を食べていたら、それは「ご馳走」でなくなる。
そういう意味で、「恵まれている人」というのは、逆に「恵まれていない」のかもしれないと思うようになった。
「悲しむ人は幸いです。その人たちは慰められるから」
(マタイの福音書 5−4)
とは、そういうことではないかと思う。
聖書に、イエス障碍者について語るくだりがある。
またイエスは道の途中で、生まれつきの盲人を見られた。弟子たちは彼についてイエスに質問して言った。
「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか」
エスは答えられた。
「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです」
これを亜由ちゃんにあてはめると、
「亜由ちゃんが、このような障碍に生まれついたのは、亜由ちゃんが罪を犯したからですか?亜由ちゃんの両親ですか?」
となる。「亜由ちゃんが罪を犯したのでもなく、両親でもない。神のわざが亜由ちゃんに現れるためです」
なんと…綺麗に収まるではないか!!!(^^♪
最後に、亜由ちゃんの双子の妹、由里歌さんが高校生の時に書いたエッセイ(福祉文化賞 高校生エッセイコンテスト入賞作品)が見つかったので、これでしめくくりたい。
https://www.n-fukushi.ac.jp/50th/essay/2011/the_second_field/yusyusyo2.html