イエス様とお金(1)

お金と信仰というのは、微妙だったりする。
例えば献金
私が初めて通い出した教会では、

「十一献金と言って、収入の十分の一を求められた。さて、シャレムの王メルキゼデクはパンとぶどう酒を持って来た。彼はいと高き神(主)の祭司であった。彼はアブラムを祝福して言った。
「祝福を受けよ。アブラム。天と地を造られた方、いと高き神より。あなたの手に、あなたの敵を渡された、いと高き神に、誉れあれ。」
アブラムはすべての物の十分の一を彼に与えた。
(創世記14・18〜20)
だが、わざわいだ。パリサイ人。おまえたちは、はっか、うん香、あらゆる野菜などの十分の一を納めているが、公義と神への愛はなおざりにしています。
これこそしなければならないことです。ただし、十分の一もなおざりにしてはいけません。
(ルカの福音書11・42)
などなど…聖書にも書かれてある。とは言っても、自分の収入はいくらかは教会にはわからない。しかし、この教会の牧師夫人に、私は月収を聞かれたのである。確かに、無から天地万物を創造された神。すべてを支配されるお方。私の月収も、主からの賜物に他ならない。
ならば…
感謝のしるしとして、その十分の一をお返しするのは、当然とも言える。だから、
(月収の十分の一を)献金した。ただ、それはあくまで、自分の「感謝したい」という思いからなるもので、牧師夫人の管理下の元、強制されるものではないような気はした。
それから私は、不思議な導きでその教会を出ることになり、今の「キリスト集会」に集うことになった。ここでは、
献金キリスト者だけの特権ですので、ご自由になさってくださいと案内が入った。
そうか、「特権」なんだ…

目から鱗であった。
キリスト集会の創設者、故ゴッドホルド・ベック氏は、
神様は人間のお金なんか、欲しくないよ。
と言われていたらしい。もっともである。ただ、どれほどの献金(=捧げもの)をするかによって、
信者の心を見られるような気はした。
親しい信者間でも、「献金」を話題にすることはない。

いくら献金しているのか、お互い知らない。ただ、人の集まるところには、どうしても「お金」が必要になる。そういう意味では、不足なく、礼拝は守られ集会は維持された。いつだったか…さる姉妹(=女性信者)が献金して、献金袋から「お釣り」を取っていた。
献金したのが一万札円だか五千円札だか…千円札(?)かはわからないが、衝撃的なシーンであった。