祈りは聞かれる(5)
「神のなさることは、すべて時にかなって美しい」
(伝道者の書 3‐11)
そんなわけで、2010年3月7日、幼稚園のママ友達と喫茶店で会い、彼女の自宅で行われる礼拝に娘達と毎週、通うようになり、そこを翌年2月に追い出され、2011年3月7日、友人の紹介の紹介で、ドイツ人宣教師、ゴッドホルド・ベック氏に会って私は吉祥寺キリスト集会に通うようになった。
「主のなさることは不思議、そして美しい」
と語られた兄弟(=男性信者)がいた。本当にそう思う。
幼稚園ママであるK宅を追い出された私は、もはやイエス様なしでは生きていけなかった。次の教会を探さねば…。
近所に信者の知り合いがいたのでメールで相談したのだが、なぜか反応が冷たかった。普通なら喜んで教会に連れて行ってくれそうなものである。
仕方なく、自宅近くにある教会に行く。ここは、日本基督教団に加盟する、
これぞ、教会~!
ジャーンというような立派な教会である。ここには娘達を連れて2回通った。名簿に住所・名前を記入し、欠席したらハガキが来た。そんななか、大学からの友達で、本人はクリスチャンではないが、知り合いに熱心なクリスチャンがいるという。その方を紹介していただき、ベック宣教師にお会いした。氏は言われた。
「イエス様を信じることは宗教ではない。宗教は人間がつくったもの。イエス・キリストとキリスト教とは関係ない!」
「人間は関係ない。神対自分」
確かにそうだ、と思う。K宅の礼拝も日本基督教団の教会も、
人間臭がプンプンする人間組織だった。
そうして通い出した吉祥寺集会の礼拝は、今までと全く違った。
・名簿はない、出欠も自由
・献金は「義務」ではなく、「特権」(だから自由)
・年齢・性別・職業関係なく横並び、イエス様を頭とした家族のよう(上下関係なし)
・人生の主役は自分ではなく、イエス様
全く居心地がよかった。
ここへは電車を乗り継いて通うのだが、苦痛ではなかった。
もしここが最初だったら、通う気力はなかったような気がする。
娘達ならなおさら、無理だろう。
それが、自転車で5分のK宅の礼拝、そこで聖書と出会い基礎を学び、一年を経てここへ来た。
ここでよかった、といつも思う。
業界では常套句だが、
導かれた。
「(嫌なことがあれば)全部イエス様のせいにすればいい!」
と言われたベックさんは亡くなり、集会にも、それこそ人間的な問題が浮上するこの頃であるが…。
神×自分
わからないことはイエス様に尋ね、欲しいものはイエス様に求め、不満があればイエス様に叫ぶ。
そうして10年…である。