イエス様とお金(4)

「さてイエスが、目を上げてご覧になると、金持ちたちが献金箱に献金を投げ入れていた。また、ある貧しいやもめが、そこにレプタ銅貨二つを投げ入れているのをご覧になった。それでイエスは言われた。『わたしは真実をあなたがたに告げます。この貧しいやもめは、どの人よりもたくさん投げ入れました。みなは、有り余る中から献金を投げ入れたのに、この女は、乏しい中から、持っていた生活費の全部を投げ入れたからです』」
(ルカの福音書 21‐1〜4)
いくら献金をするか…信者間で話題になることはないし、いくら献金しているか、親しい間柄でも話さない。信仰と献金の額とは関係ない
だろうか…?
と思うようになった。
礼拝には、本当に生活が苦しくて、小銭しか献金出来ない信者もいれば、悠々自適で生活の心配もない信者もいる。
高齢のため通販、と言っても高級通販で買い物するのを楽しみにしているセレブな姉妹(=女性信者)が、
1000円の献金
と知った時は、ガッカリした。
「すべてイエス様」が口癖で、聖書のみことばが会話の中に、すぐ引用された。「はい、お祈り!」と電話でも祈りを要求された。
食べることも大好きで、グルメ。
自分のことには金を惜しまない。
なのに…「イエス様は人間の汚れたお金なんて欲しくないわよ」
それはそうだろう。しかし…その解釈は、自分に都合良すぎないか?
献金は、神への感謝のしるしである。
神様が「いらないよ」と言われても、「私の気持ちですから、受け取ってください」というものではなかろうか?冒頭の引用にもあるように、献金の金額ではない。
レプタ銅貨1枚は、50円ほどらしい。2枚ある(2枚しかない)レプタ銅貨を2枚とも、神に捧げたのだから捨て身である。捨て身の献金
神が祝福されないわけがない。
いくら献金したか…自分以外、誰も知らないが、神だけはご存知なのだ。ひとつ思い出すことがある。
(財布にお金を入れ忘れて)献金する額は決めていたから、いつも通りに献金すると、
帰りに(夕食など)買い物するお金がないなぁ…と思ったことがあった。
それでも、自分の生活を優先する気になれなくて、夕食なんか、どうとでもなる
いつも通り、献金した。
すると…礼拝の帰りに見たら、
財布の中に、ある筈のない5000円札が入っていた。
\(゜ロ\)ココハドコ? (/ロ゜)/アタシハダアレ?
ここで、ちょっと番外編。
私、昨年5月から、日本劇作家協会が主催する「戯曲セミナー」というものに参加して、戯曲の勉強を致しました。
この4月にそこを卒業して、同期生で立ち上げた「劇団ユニット ちょっくら」というものに加えていただきました。
今週末、26日、午後7時より、東中野ポレポレ座で、リーディング公演なるものを行います。リーディングとは、戯曲をト書きも含めて役者が朗読するものです。
オリジナル3本立てです。
チケットは無料。お客様の率直な感想を聞かせていただき、今後の活動に生かしたいという思いで、スタッフと観客との交流する時間も設けました。
ご都合つくようでしたら、是非…。https://chokkura.wixsite.com/cho-kkura/show-up