心の準備(1)

クリスチャンになって良かったことはいくらもあるが、その顕著なことのひとつに、
すべてを主イエスから受け取れる。
ということがある。
私の通う集会の宣教師はいつも、
「全部、イエス様のせいにすればいい」と言われる。
エス様を信頼してイエス様から受け取ると、イエス様が「責任を取ってくださる」と言うのである。
「わが子よ。主の懲らしめを軽んじてはならない。主に責められて弱り果ててはならない。主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである」(へブル人への手紙12-5・6)
「わたしのしていることは、今はあなたにわからなくても後でわかるようになります」
ヨハネによる福音書13-7)
事件、事故、病、災難…
どうしてこんなことが…と思うようなことも、
エス様が与えられたのだ。
と思えば不思議と楽になる。
目先のことで右往左往させられるのが我々である。
長い目で見れば、失敗は成功の元であったり、苦労が人間を鍛えるのだが、なかなかそんなふうには受け取れない。
思いもかけない事態に遭って、
エス様、どうしてですか?!と叫びそうになるが、「どうしてですか?」ではなく、
何のためですか?なのだそうだ。「そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです」
(ローマ人への手紙5‐3・4)
からもわかるように、主が我々に与えられるのは、大抵、患難や苦しみであり、それは全く容赦ない。
私は内心、
エス様はサド。クリスチャンはマゾ
だと思っている。
前置きが長くなった。
「健康診断」…については、信仰に入って(6年前)から受けていない。
頭痛・生理痛・腰痛…も知らず、風邪もろくにひかない。しかし、健康に自信があるというのではない。
自信のあるなしに関係なく
病気になる時はなる、死ぬ時は死ぬのである。
それが神の意志ならば、受け入れるしかない。
だから受けなかった、というのではないけれど、
(健診を)受ける必要があるなら、そのように導いてください。
祈っていた。
要は面倒臭いのである。
長生きしたいとは思わない。逆に、
長生きしたくない。
老いた両親を見ながら、しみじみ思う。
かけて加えて、我々クリスチャンは、
死ねば天国
なのだから、死は終わりではない。寧ろ、
死んでからが本番なのである。残された中学生の娘達は不憫だが、主が養い育ててくださる、責任を取ってくださるらしい。
だから、健診を受けなかったというのでもないのだが。
ガン検診は気にはなっていた。
エス様からと受け取ったにせよ、ガンになるのは(理屈抜きに)怖い。
痛いのも嫌。
信仰がありながら葛藤する自分が嫌だった。
そんな私だが、この夏、健診及び「ガン検診」を受けることにした。
その経緯については次回…。