ベックさんの言葉(1)

私が集うキリスト集会の責任者、ゴッドホルド・ベック氏が8月に亡くなられた。
業界用語では「召された」(「天に召された」の意か)と言う。
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ドイツから日本へ来られて60年以上。氏が立ち上げたキリスト集会であるから「責任者」というのもどうかと思うが、キリスト集会というところは、イエス様が家長で後は横並びの「兄弟姉妹」からなる家族みたいなものなので、このように紹介させていただく。ベック氏自身が、「先生」扱いされるのを殊の外嫌う方であった。「イエス様とキリスト教は関係ない。宗教は人間が作ったもの。イエス・キリスト無宗教!」これを声を大にしていつも言われていた。従って、キリスト集会には名簿や連絡網、役職…など組織的なものは一切ない86歳、白血病やガンなど大病を与えられながら、最期の最期まで福音伝道に駆け回っておられた。
氏との出会いは、このブログの初期の頃に綴ってある。不思議な導きであったが、ベック氏との出会い、キリスト集会との出会いに深く感謝している。
あの出会いがなければ、今頃、どうなっていたか?一年を閉じる前に、私がベックさんから教わったことを、いくつか書き記しておきたいと思う。◆すべてを主の御手から受け取る
幸運なことばかりでなく、不運なこと、不幸、絶望的なことも「神から与えられた」ものとして受け取る。
事故や病、トラブル…「受け取れない」現実もあるだろう。しかし、「神から与えられた」と解釈することで、救いの道は開かれる。

「二羽の雀は一アサリオンで売られているでしょう。しかし、そんな雀の一羽でも、あなたがたの父のお許しなしには地に落ちることはありません。また、あなたがたの頭の毛さえも、みな数えられています」
(マタイの福音書10‐29、30)
電線に止まっている雀さえ神の許しなしには地に落ちることがない…とすれば、人間の一挙手一投足さえも神の御手の中ということになる。我々の髪の毛まで数えられているのだから、我々の苦しみも絶望も、我々以上にご存知なのだ。ならば、この苦しみも絶望も「何とかしてくださる」と思える。また、我々は近視眼的に物事を見て判断してしまいがちだが、「幸運」と思ったことが身の破滅を招くこともある。「失敗」が「成功」を呼び、長い目で見れば艱難辛苦が人を鍛える。
聖書の中では、「試練」は恵みである。(試練の中で人は神を求め、祈る)「わたしがしていることは、今はあなたにはわからないが、あとでわかるようになります」
ヨハネ福音書13‐7)
◆主が責任を取ってくださる
ベックさんはよく言われた。「イエス様のせいにしましょう」――自分のせいではなく、神様のせい。神の許しがなければなければ雀一匹、電線から落ちないのだから、起きたことについて(例え、それが自分の強い意志であっても)神は無関係ではない。そして祈るのである。
主は我々の祈りを聞いてくださっていて、祈ったことについて責任を取ってくださる。
また、自分では手も足も出ない、お手上げ状態…には、自分で何とかしようとせず神様に丸投げ(お任せ)する。
自分で何とかなる、と思ってるうちはダメ。自分に絶望して神に委(ゆだ)ねきる。そうすれば、我々が想像もつかない方法で解決をつけてくださる。「わたしを呼べ。そうすれば、わたしは、あなたに答え、あなたの知らない、理解を越えた大いなる事を、あなたに告げよう」エレミヤ書33‐3)
「あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる」詩篇37‐5)
ベックさんとの出会いのブログ →http://d.hatena.ne.jp/rennren/20110307
つづく