ベックさんの言葉(2)

◆人は病では死なない。主の時になれば主が迎えに来てくださる。そして、主の時は最善の時。

これで、一体、どれほどの人が救われただろう。ベックさんは死期の迫った人を見舞うことも多かった。
「死を待つ」人達にかけられる、これは最高の言葉ではないだろうか?
また、死に脅える私達の不安や恐怖まで拭い去ってくれる。
人は、「死にたくても死ねない」。自殺しようとしても未遂に終わることもある。逆に、思いがけないことで命を落とすこともあれば、「生きたくても死ななければならない」こともある。
自分の「人生」ながら、その「生き死に」は自分の意のままにはならない。
長く人生とは何なのだろう…と思っていたのが、ベックさんのこの言葉が、すっと胸に落ちた。理屈ではない。
すべてを「神の御手から受け取る」ということは、「死」もまた、そうなのである。神から受け取った「死」ならば、神が責任を取ってくださる。

神のなさることは最善。神のなさることは時にかなって美しい。◆イエス様を理解することは出来ない。
頭で理解することは出来ない。聖書をいくら読んで勉強しても、イエス様は理解出来ないのである。ベックさんは「経験を通してイエス様を知る」ことがとても大切だと繰り返された。
冷静になれば、天地万物を創造された神を、人間ごとき小さな頭で理解など出来るはずがないのである。
信仰に入ってから、信じられないような、不思議な経験を幾つもした。このブログにも書いて来た。全く信仰のない人でも、「これは神だ」というような経験をすることがある。
そんな経験を通して、神は我々に語りかけ、導いてくださっているのだと思う。
それでも、イエス様は「理解出来ない」お方だから、信者として「どうしてですか?」と思うことも多い。
「どうしてですか?」と祈りの中で尋ね求めるのである。
時間が経ってからわかることもあれば、まだ「わからない」ことも多くある。
それでも…「経験」を通して、イエス様が「信頼に足る」お方だということはわかってきた。他に、「信頼出来る」ものがない、ことにも気づかされた。◆「ごめんなさい・ありがとう・よろしく」キリスト集会の兄弟姉妹が、お題目のように唱えている言葉ではないだろうか。
「ごめんなさい」は、端的に言えば、神への「悔い改め」神に背を向けていたこと、自分本意に生きて来たこと…など、(この世的には罪とはされないけれど)自分が罪人であることを認め、謝罪する。
次には、罪人である我々人間の受ける罰(=地獄)を、イエス様が十字架刑になることで帳消しにしてくださった。私達が死の呪縛から開放され、死後は天国が約束されていることへの感謝、「ありがとう」
そして、これからのこと、自分本意ではなく、エス様を信頼してお任せしますので「よろしく」お願いします。
この祈りが出来れば、救われる…神の子として死後は天国…ということなのである。
「ごめんなさい・ありがとう・よろしく」

当然のことながら、これを口先だけで唱えるのでは意味はない。そして、これを心から祈るには、相応の経験(試練)を経て聖書にある「砕かれ」なければならないだろう。
実を言うと、ベックさんが残してくださった言葉を取り次ぐというのには、迷いもあり覚悟も必要であった。私なんぞがおこがましい…。
しかし、ベックさんが亡くなり、今年も終わろうとして、ベックさんが残してくれた言葉がいかに普遍的な真理であり、多くの魂を救い得るか…ということを実感した。
ベックさんと出会って6年。ベックさんの言葉は私の中に生きて働き、人生を生きる指針となった。
ベックさんの言葉=イエス様(聖書)をわかりやすく解釈した言葉
を伝えることは、ベックさんの本意でもあろう。
一人でも多くの人に知ってもらいたく、勇を鼓舞して更新させていただいた。
勿論、祈りながら…。
最後に、これを目にしたキリスト集会の兄弟姉妹、おかしなところ、気になる点などありましたら、どうか「コメント」にてご指摘ください。
よろしくお願い致します