死の問題の解決(6)

「しかし主は、『わたしの恵みはあなたに十分である。というのは、わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである』と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。ですから、私は、キリストのために弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです」(コリント人への手紙Ⅱ12-9・10)
私も最近知ったことだが、聖書の中で「わたし」と表記されているのは「主イエス・キリスト」をさす。上記のみことばでは、「私」は「コリント人への手紙Ⅱ」を書いたパウロである。 
聖書には、この世の常識では理解できないことがいくつも書かれているが、上記もそうである。
「私の弱さを誇りましょう」「私が弱いときにこそ、私は強い」
どういうことや、わけわからん、であろう。
それは、
「わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである」ということであり、
主イエスは、我々が自信を失い、弱りきった時にこそ、完全に働いてくださる、ということらしい。
主の前に自分の無力を認めてへりくだるのである。
確かに、自信があって「自分で何とかなる」と思っていれば、神の出番などないだろう。「イエス様はバカな人、ダメな人、大好き」とG宣教師は言われるが、とても嬉しい。
神様は、そうでなくっちゃ…と思う。自分ではもう、どうしようもなく途方に暮れるばかりで、
どうしていいのかわかりません、教えてください。
と祈った時、奇跡が起こる…ということを、我々信者はいつも経験している。
「わたしを呼べ。そうすれば、わたしは、あなたに答え、あなたの知らない、理解を越えた大いなる事を、あなたに告げよう」
エレミヤ書33-3)困った時の神頼み…で祈るのではない。腹の底から絞り出すように神を求める、助けを乞うのである。
相手は天地を創造した神である。全身全霊で「あなた様しかおられません」という心境で祈るのである。
祈ってみてください。
ただ、
「あなた様しかおられません」
と祈るようになるには、相当、大変な目に遭って、挫折、絶望…しなくては無理。
人(神も)に頼らず自分で何とかする。
というのがこの世では美徳とされているから、
自分で何とかしようとして何とかできれば、神など必要ないのである。
そして、神の立場からすれば、
自分で何とかする、何とかなる…は「傲慢」なのである。確かに、
優秀、有能な人間、出来る人…というのはいるし、そういう人間が「傲慢」になっても仕方ないと思う。
叩き上げの私の父も80歳まで挫折を知らず、かなり強気で生きてきた。
高齢で身体も弱り、不安にもなるが、自分で何とかする。
人生の勝ち組のようなプライドがあった。イエス・キリストの教え、お父さん好きやで」
と言っても、イエス様にすがる必要はなかったのである。「父がイエス様と出会えますように」
と祈るようになった。一体、どんなふうにして「出会える」ねんやろ。不幸な目に遭わないと「出会えない」ことは何となく知ってはいたので、心配なところはあった。そしたら、
礼拝から帰宅した日曜午後、実家から、父がクモ膜下出血で倒れたという電話を受けた。
当時のことはブログに記した。
http://d.hatena.ne.jp/rennren/20130310
突然の電話を受けて、
エス様だ〜!
と受け取ったと書かれていた。あれから3年。
寝たきりになった父は、我儘ひとつ、愚痴のひとつも言わずに、
すべてを諦めてしまった。人のようにも見える。
それは娘として辛いが、一方で、主の守りの中で穏やかに生かされている。
というふうにも感じる。何よりも、ここまで砕かれなければ、父は神の身元へは行けなかった。…とすれば、これも恵みなのだ。
「私が弱いときにこそ、私は強い」ならば、父は完全に強いのである。聖書の中では、試練、艱難(かんなん)…この世でいう「苦しみ」は、主からの恵みである。
苦しみにあったことは私にとって幸せでした。
私はそこで、あなたの掟を学びました。
詩編119-71)
「喜び」は一瞬だ。「喜び」から学ぶことより「苦しみ」から学ぶことが、遥かに大きく、深いと思う。
両親の老いていく姿は、一番現実的な「死への覚悟」である。死んだらおしまい。
だとしたら、人生の意味は何なのか?「死への覚悟」など出来ようがずがない。
「けれども、私達の国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私達は待ち望んでいます」
神様が嘘を言われるはずがない。死ねば天国…ならば、死を楽しみに待ちたいものである。