見つかる(2)
財布やスマホなどの「致命的」ではないものの、ビックカメラのカード類が入ったケースを失くし、「うすどんより」な日々を送っていた。
「うすどんより」も長く続けば「どんより」になる。
家の中にあるはず、それも限られたところ…。
探してみるのだが見つからない。
なぜ…?
「主が見つけてくださいますように…」と祈るのだが…。
そして、「祈り会」の日。
「祈り会」というのは、イエス・キリストを主とあおぐ教会の信者がグループを作り、ともに祈るのである。
「また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」
(マタイの福音書18:18〜20)
そうして、「祈りの課題」(祈ってほしいこと)を出し合い、一人一人順ぐりに祈る。
みな、自分のことよりも、家族や身内、色々なことを真剣に祈る。
私は感心して時間を計ってみたりする。
私などは自分と家族、ごく親しい人のことしか祈れなくて、とても短い祈りになる。
仕方ない。
主は我々の心の内などお見通しである。
で、この日は、思い切って、「見つからないカードケースを見つけてください」と祈ったのである。(多少、恥ずかしい)
我々、キリスト者の祈りは、ただの「神頼み」とは違う。
「キリスト教はご利益信仰ではない」といわれるが、
自分の欲や願望(我が儘)はかなわない。
自分の祈りが、主の「御心にかなう」ものならば、聞き届けられ、かなうというものである。
主の「御心にかなう」というのは難しいのだが、主が「よかろう」とされるもの、ということか…?
主の前に祈りを捧げる。それを主が、
「よかろう」
といえば祈りはかなう。
「それはならん」
といえば祈りはかなわない。
ということか…?
私にはまだよくわからないのだが、主の前に自分の「願い」を差し出して、
「よし」
とされるなら喜び、
「あかん(関西弁)」
とされるなら「あきらめる」という具合になっている。
だからこの日も、祈り会に「カードケースが見つかる」願いを差し出したのである。
「あかん」
ならそれで、「そうなのだ」とあきらめがついた。
カードケースが見つからないことなど、どうでもよいのだ、と……。
そうしたら、その夜、横浜駅から電話がかかってきたのである。