死の問題の解決(5)

「神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠を与えられた。しかし人は、神が行われるみわざを、初めから終わりまで見きわめることができない」(伝道者の書3-11)
エス様(聖書)と出会って6年目。最初の礼拝所に1年、そこを追い出されてから電車を乗り継いで、今のところへ通い出して5年が経過した。
もっと早くイエス様と出会いたかった、求める気持ちは若い頃からあったのにどうして…?という思いは今もある。
(小学校低学年で主と出会えた娘達が羨ましい)
しかし、出会うのが遅かった分、出会ってからの歩みはトントン拍子だった。最初のところで聖書の素晴らしさを教えられ、何しろ近所だったので娘達も自然についてきた。
今のところはバイブルスタディというものはなく、娘達も信仰はあったので電車乗り継いで礼拝に通った。
人間関係や規則(出欠・遅刻・居眠り…)など、面倒な縛りが全くない。献金も自由。
というわけで、すこぶる居心地が良い。しかし、ここが最初であれば、聖書に心酔することもなく、娘達は無論、私でさえ電車乗り継いで通うのは難しかった。
入口はあれが最善であり、そこで学べるだけ学んで、次の最善へと導かれた。
神のみわざを実感する。
「主イエス様は理解できるようなお方ではありません」ドイツ人宣教師、G氏は言われる。
主イエスを経験する。
人知を超える奇跡を経験することで、神の存在を知る(感じる)ということか。
上のような経験を含め、何度もイエス様を経験した。
周囲の信者を見ながら、間接的に経験したことも無数にある。また、信仰は祈りに尽きる。
ということも、ここで教わった。
「祈って求めるものはなんでも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります」(マルコの福音書11・24)
「何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます」
(ピリピ人への手紙4・6〜7)
近所の礼拝所を追い出されたのは、晴天の霹靂だった。なぜだかわからず途方に暮れ、娘達と祈った。
今から思えば、(疑問や不満があったにせよ)自分から出ることはありえなかったから、「追い出される」以外にあそこを出る術はなかったのであり、
追い出されずに、あのままあそこにいたとしたら…?と想像するだに恐ろしい。
主が働かれた。
主は、生きておられる。
そう確信することが、信仰のすべてのような気がする。
そして、そう確信できれば、恐れることは何もなくなる。
死の問題も解決される。
「わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます」
ヨハネ福音書4・11)
「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」ヨハネ福音書3・16)