「がん」という冒険(89)

祈り会である。

知らない人が聞くと…といっても、知る人の方が珍しいわけで、何やら怪しい会のような響きかもしれない。

私が毎週通う祈り会は、イエス・キリストを救い主と信じる者たちが集まり、家族や身内、友人、知人…自分のことなどを祈る。たとえば、病気の人がいれば病気が癒されるようにとか、最善の治療が行われるようにとか、病気を通して、その人がイエス様と出会えますようにとか…祈り方は色々である。

「もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです」

(マタイの福音書18‐19・20)

というわけで、祈り会とは神がともにおられる、神聖な場なのである。

「祈り」という言葉は、一般的に広く使われる。初詣もそうだし、今の時期なら「合格祈願」。子宝祈願もあれば安産祈願、「苦しい時の神頼み」。大切な人の無事や元気になることを祈る。「お守り」というのも祈りの象徴だろう。

しかしながら、そのような一般的な「祈り」(祈願)と主イエスを信仰する私たちの祈りとは根本的に違う。よく言われることだが、

キリスト教はご利益信仰ではない。

つまり、イエス様抜きの祈りは、

ご利益=目先の成功、成就、幸運…

受験なら合格、仕事なら成功、病気なら回復……。お金持ちになったり、いい暮らしができたり、人から羨ましがられること。

ラッキー(^。^)y-.。o○

というやつである。

主にある祈りは、全く違う。自分の直接的な願望ではなく、主にお任せすること。自分が低くなり、神のなさる最善を祈るということではないかと思う。たとえば受験なら、

・無事に試験が受けられますように

・全力を出し切ることができますように

・最善のところに合格できますように

・この受験を通して、主が豊かに働いてくださいますように

自分の願いをそのまま神が聞いてくれるなら、それは神ではなく御用聞きである。

自分>神

それに気づいたのはイエス様を知ってからであり、それまでは私も受験の時にはお守りをいくつもカバンにつけて、友人から、

「神様どうしがケンカして、願い事聞いてもらわれへんで」

と言われ、なるほど、と思ってしまった(。-`ω-)

\(゜ロ\)ココハドコ? (/ロ゜)/アタシハダアレ?(-_-)/~~~ピシー!ピシー!

結局、私にとっての「神頼み」は気休めだった。

神頼み以外にも、星占い、風水、タロットカード…。

今なら思う、

一体、誰(何)に祈って(頼って)いたのだろう???

 

私はイエス様を知って十年少しだが、ようやくわかってきたのは、

自分が思う最善と主が選ばれる最善は違う。

ご利益という目先の幸運には何の保証もなくあっけなく、ひっくり返る。しかし、主を信頼し、祈り続けて起こったことには、結果として感謝できた。その時は「苦しみ」「悲しみ」であっても、忍耐して祈り続ければ「喜び」「感謝」に代えられた。

「わたしがしていることは、今はあなたにはわからないが、あとで、わかるようになります」
ヨハネによる福音書 13‐7)

 

聖書では「忍耐」が重視されるが、確かに忍耐によって人は鍛えられ、内側から変えられていく。

私も突然、がんを与えられた。風邪もひかないのが、いきなりがんである。胸のしこりに気づいてから、主に祈った。戸惑いも恐れも不安もあった。しかし、

がんでありませんように。

とは祈らなかった。検査を受けるかどうかも判断できなかったから、

導いてください。

と祈り続けた。そうするうちに、がんであるかどうかは自分だけの問題ではない、という思いが与えられ、「白黒つけたい」と決断して検査の予約を入れた。

その後も他の誰にも相談せず、イエス様だけと向き合い、

どのようなことがあっても、すべてを主の御手から受け取ることができますように。

これは、乳がんだとわかってからも祈り続けたことである。

がんを通して、イエス様のご愛を味わわせてください。

(≧▽≦)(^^)/~~~(^0_0^)(^。^)y-.。o○(^_-)-☆

そうして、主は、私の祈りに、これ以上ないくらいに応えてくださったのである。

 

…と何を言いたかったかというと、去年の暮れに帰省した際、親しい人から

祈りでは何も変わらへん。

といわれたことが、ずっと頭から離れず、頭の中をぐるぐる回り続けていた。あまりのことに、即座には言い返せず別れたのだった。

次に会った時には、何と言い返してやろう…と思いながら、改めて「祈り」ということを考えたのである。

(つづく)