葬儀の恵み

イエス・キリストを救い主とするようになって、与えられた恵みは数知れずあるのですが、
死に対する恐怖がなくなった。
ことは、とても大きいです。
理屈ではなく、それまで私にとって「死」とは、
永遠の無
でした。
永遠の眠り(沈黙)
と同義かもしれません。
この世を謳歌して楽しんで、
永遠の無
なら、いざ知らず
私にとって人生とは、
目隠ししてマラソンさせられてるような…
ものでしたので。それのゴールが、
永遠の無
では…
人生の意味って何?
誰も答えてくれなかったけど、
聖書には、すべて答えが書かれてありました。
聖書によると、この世の人生は、
神の聖さに近づくための「訓練」、予行練習であり、
死んでからが「本番」なのですね。
人生なんて80年、長生きしたところで100年。
でも、死後は…永遠。
「今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます」
(ローマ人への手紙8章18節)
人生、老いるに従って、不自由、困難…つきまといますが、
目隠しマラソンのゴールに、
永遠の楽園(=天国)
が待ち構えているなら、
まぁ、しょうないな。
と思えたのですね。
で、死後のことですが、牧師が言うに、
生前、イエス・キリストを受け入れなくても、
(死に直面すると、今までの人生を走馬灯のように見せられて)「ごめんなさい、許してください」
と、大抵の人が神の前にひれ伏して、救われる(天国に行く)のだそうです。
逆に言えば、救うために、神が走馬灯の人生を見せるらしいのですね。
あぁ、よかった…
ほっとしました。
そんなわけで、(体調が優れず)十年以上会っていない叔母でしたが、訃報を聞いて、
天国に行かれたのだな。
と思うことが出来ました。
この世の苦しみから解放されて、永遠の楽園に旅立たれたのですから、
おめでとうございます。
ですよね?
亡くなって「おめでとうございます」とは言えないけれど、平安です。
私のところのドイツ人宣教師は、葬儀の席でよく、
「(故人を)羨ましい」
と言われます。
聖書によると天国というのは、それはそれは、例えようもないほど素晴らしいところだそうなので。
「人生において、本当に大切なものは、死の直前の三十分前においてもなお、重要な意味を持ち続けているものだけ」
なのだそうです。
叔母の死に顔は、今にも目が開きそう、本当に眠っているように安らかでした。
長らく会っていない従姉妹とも会うことが出来ました。
従姉妹のことも、これから祈っていこうと思いました。