後で、分かるようになります。

良い名声は良い香油にまさり、死の日は生まれる日にまさる。
祝宴の家に行くよりは、喪中の家にいくほうがよい。
そこには、すべての人の終わりがあり、生きている者がそれを心に留めるようになるからだ。
(伝道者の書 7章1・2節)
というわけで、教会の葬儀(お別れ会)に行ってきました。
故人は44歳の女性。
親しいわけではない…というより、直接にお会いしたこともない。
その方のお母様、紀子姉妹を少し知っているだけです。
礼拝においでになり、いつも上品で、いかにもクリスチャン、という雰囲気の方です。
教会の葬儀というのは気軽です。
雰囲気が明るくて、賛美歌歌い聖書を読み、光に溢れてる感じなんですね。
これから天国へ旅立つ儀式なのですから暗いわけがありません。
何より香典包まなくていいのが良いです。
故人の満理子さんは、数年前からガンを患っていました。
若いから進行も早いわけですね。
ところが、オーストラリア人のご主人までガンになり、そうして満理子さんより先に天に召されてしまいました。
夫婦してクリスチャンでした。
仲の良いご夫婦でしたが、子どもはなく、未亡人になられた満理子さんは一人、オーストラリアに帰ります。
ご主人の最期は、本当に主の祝福に包まれていた、と紀子姉妹が語られていましたが、娘の満理子さんは、夫の死が衝撃で主から心が離れてしまったそうです。
無理もないです。
自分がガンであるだけでも大きな苦しみなのに、その上に夫までがガン、そして自分より先に旅立ってしまった。
いくらクリスチャンで「死ねば天国」でも、あんまりです。
紀子姉妹の言われた言葉が忘れられません。
「主はこのままにはされない」
責任をとってくださる、ということですね。
こう言い切れる紀子姉妹もすごいと思いました。
そして、一体、どのように責任をとってくださるのか…と思っていました。
満理子さんのことは、しばしば祈り会の課題に上がり、私も祈っていました。
今年に入ってからは、ろくに食事もとれない…と聞いており、心配していました。
いくら「死ねば天国」でも、末期ガンの苦しみは壮絶でしょう。
そして、実家の父を見舞っていた5月1日、満理子さんの訃報が携帯メールで届きました。
主は、責任をとってくださったのだろうか?
それを確かめたくて、会ったこともない満理子さんの葬儀に参列したのでした。
エスは、父がすべてを御自分の手にゆだねられたこと、また、御自分が神のもとから来て、神のもとに帰ろうとしていることを悟り、食事の席から立ち上がって上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。それから、たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、腰にまとった手ぬぐいでふき始められた。シモン・ペテロのところに来ると、ペテロは、「主よ、あなたがわたしの足を洗ってくださるのですか」と言った。イエスは答えて、「わたしのしていることは、今はあなたには分からないが、後で、分かるようになります」と言われた。
ヨハネ福音書 13章3〜7節)
「わたしのしていることは、今はあなたには分からないが、後で、分かるようになります」
よく引用されるみことばです。
確かに、我々は目先のことに振り回されて、一喜一憂しています。神のご計画は遠大で、我々には計り知れません。今の不幸や苦労、耐え難い苦しみ…が、後になれば大きく花開くこともあるでしょう。
先のことなどわかりません。
満理子さんが結婚されたのが2006年。それからガンの発病、夫のガン…そして一昨年の死。満理子さん自身の闘病と死…。
満理子さんがどのような気持ちで天に召されたのかは、わかりません。
エス様から一度は離れた心が、再び繋ぎ留められて、こうして教会での葬儀となったのでしょうか。
母親の紀子姉妹が挨拶されました。
満理子さんが聖書のみことばに支えられたこと。自分が死ねば、天国にいる夫と二度目の結婚式が挙げられる…ということで、ウエディングドレスで棺桶に入れて欲しいと言われ、そのようにしたそうです。何だか映画のようなエピソードですが…。
逆縁(子どもが親より先に死ぬこと)はつらいと聞きます。そして、逆縁どころか、この葬儀には98歳になる紀子姉妹の母親、満理子さんの祖母にあたる方も参列していました。
98歳といえば、44歳で亡くなった満理子さんの倍以上の年齢…。
どのような心境かと思ってしまいます。
紀子姉妹の次に父親の方の挨拶がありました。この方はクリスチャンではない。つまり、イエス・キリストを受け入れていないわけですね。紀子姉妹に比べ言葉数が少なく、参列者へのお礼を述べられました。これは、あくまでも私の推測でしかないのですが、このような最期を迎えた娘に対して、未信者の父親ならば、イエス・キリストを受け入れた娘を、どうして、ここまで苦しめたのですか?」という思いになるのではないか…。
「わたしのしていることは、今はあなたには分からないが、後で、分かるようになります」
そうかもしれません。神の意志など我々にはわかりようもない。けれど…。どこか煙に巻かれたような気がしてしまいます。
イエス・キリストは生きて働かれていると思います。頼っているし、他に救いはありません。ただ…私は他の信者方のように、
愛するイエス
とは祈れないでいます。