神が動く…(1)

某日午後、ピーター宅での私と先生のやりとり。
「先生、クリスチャンになりませんか?」
「なりませんよ、そんなもの|`Д´)ノ」
「別に毎週、教会に通わないといけない、とか仏壇処分しなきゃいけないとか、面倒なことは何もないんですよ。イエス様信じるだけでいいんですよ」
「どうして、そんなに僕を勧誘したいんですか」
「だって…先生には地獄へ行ってほしくない"(-""- )"」
YAH♪☆0(^^0)*^^*(0^^)0☆♪YAH
これ…思えば、愛の告白…ではないのかしら(/-\*)
信仰とは価値観が180度塗り替わること。自分の中で地殻変動が起こり、全く別の人格に生まれ変わることです。だから、先生が、そう安々とイエス様を受け入れるわけがないのはわかっています。
でも…
先生の年齢(80歳)を考えれば、呑気なことは言ってられない。
「イエス様信じないと、死後に審判受けて地獄へ堕ちるしかないんですよ」
幼稚な解説だが、クリスチャンとして初心者マークだし、致し方ない。
「地獄なんて面白そうじゃないですか|^ー゚)ノ」
信仰など押し付けるものではなし、これ以上、私には、どうすることも出来ないのだと思う。それに、私自身が、
聖書に永遠不滅の真理を感じ、イエス様を信じていても、
死んで、天国へ行ける確信はない。
ネオキワル〜 ~~ヽ(▼o▼) オイッス〜
多分、「天国への確信」には、それなりの経験と、時間が必要なのだと思います。
私の通う、キリスト集会、そこで知り合った姉妹達(キリスト集会では、女性信者を姉妹、男性信者を兄弟と呼び合う)が口を揃えて言うのが、
祈っていると、主は必ず答えてくださる
ということでした。と言っても、
神が現れて何か言ってくれる。
というのでは、無論、ありません。現象面で答えが出る、主が働いて導いてくださる、というところでしょうか。
「祈り」というのは、神との「対話」なんですね。ですから、対話を重ねることで神が動く…ということかもしれません。
祈っていると、主は必ず答えてくださる
ということを、私も何となく感じています。そして、
桂千穂先生が救われますように…
と祈るようになりました。「救われる」とは業界用語で、
エス様を信じ、自分の主として受け入れる。
それを口にして「信仰告白」することで、永遠の命を与えられる。
死が終わりではなく、それは、天国への旅立ち…
(*^^)/。・:*:・゜★,。・:*:・゜☆アリガトー!
不老長寿どころではないわけです。
つまり、「死」の恐怖から開放される。
ここでポイントは、
自分の力で何とかしようとしない。
人間の力なんて、所詮、無力で、どうにもならない。
自分でどうにかしよう、どうにか出来る…と思う心が傲慢、らしいのですね。で、どうするか。
神の手に委(ゆだ)ねる。つまり、
祈る。
と…。
礼拝で知り合った佃(つくだ)姉妹(舞台のチケットを買ってくださった<(_ _*)> )が学芸大東横線学芸大学前』)で家庭集会を開くと言います。家庭集会というのは、信者が自宅を開放し、そこでメッセージ(聖書に関わるお話)を聞き、集まった人達が親交(信仰)を深めるというものです。学芸大と言うと…
ピーター先生の自宅やんけ…( ̄▽ ̄;)
で、住所を聞くと…
何か、先生の近所のような…
アセアセo(^^;o)Ξ(o;^^)oΞo(^^;o)Ξ(o;^^)oドウモ〜♪
この佃姉妹(70歳前後)が非常に面白いキャラクターで、近所に住む三谷幸喜と犬の散歩で出会い、朝日新聞連載「ありふれた生活」で三谷氏を知っていた姉妹、三谷氏を伝道しようとして非常に煙たがられた、という話を楽しそうにしておられました。ちなみに、佃家での家庭集会は一年ぶりとのこと。
これって…
神様の書いたシナリオ……?
「先生、碑文谷○○○というのは、先生のご近所ではありませんか?」
家庭集会前日、私は電話で先生に聞いてみました。
「はい、近所ですよ」
「あの…佃さんというお宅をご存知ですか?」
「ああ…知ってますよ。妹がよく知ってる。代わりましょうか」
ビンゴ\(●⌒∇⌒●)/ニャリーン

つづく