「がん」という冒険(91)

祈りでは何も変わらない。

と断言されたことに反応して、無責任に語ってしまったことを反省している。「祈り」について改めて考えるきっかけにはなったが、私が祈りについて語るなど、おこがましい(=身のほど知らず)にもほどがある。かといって、一度更新したものを削除するのもどうかと思う。

ひと言でいうなら、私はまだ祈りについて偉そうに語れるほど、何もわかってはいない。まったく、穴があったら入りたい、心境であるが、恥の上塗りにならないよう、書き添えていきたい。前に書いた

「祈り」とは神との対話であり、神を求め、神とつながることである。

これは、この通りだと思う。ただ、人が人とつながるのさえ簡単ではない。まして、人間が神とつながるなど、並大抵のことではなかろう。

 

まだ礼拝に集い始めの頃、信者はほぼ例外なく、重荷(試練)を背負っていた。逆にいえば、重荷があるから礼拝に来るのである。切に祈るのである。

信じる者は神から与えられる試練から逃れようがない、と礼拝で聞かされた。私はといえば、脚本を書き、3年くらいかかって立ち上げた舞台公演は反響もあり、演出家が再演を切望し、私は次回作に取りかかる心つもりだった。それが、公演が終わった一週間後、清算をしているプロデューサーから礼拝中にメールが届き、

「~あと30万必要です~」

まさに青天の霹靂(せいてんのへきれき)だった。公演は全日程、満席だったし、私が立て替えていた何十万かも、そのままだった。

「私の立替分が未払いのまま、30万ですか?」

と慌てて返信したのを覚えている。

 

そのプロデューサーと二人三脚で立ち上げた舞台で、舞台の成功に祝杯をあげたばかりだった。結局、再演も次回作も消し飛んだ。最悪である。ただ、私の立替金は全額戻ってきたし、不足分の30万も払わずにすんだ。これは奇跡的で、神のみざわを感じないではいられなかった。プロデューサーとは和解どころか、以後、連絡も取り合っていない。

 

当時、私は親しくなった姉妹にこう言ったことがある。

エス様はサド(サディスト)で信者はマゾ。

(/ω\)\(゜ロ\)ココハドコ? (/ロ゜)/アタシハダアレ?(一一")

 

「わが子よ。主の懲らしめを軽んじてはならない。主に責められて弱り果ててはならない。主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである」(へブル人への手紙12‐5~6)

誠に主の懲らしめは容赦ない。信仰が深いほど試練も重いという話も聞く。今は亡くなられた敬愛する宣教師は、皮膚がんに白血病、糖尿病を与えられながら、いつも笑っておられた。しかも6人のお子さんのうち、3人を亡くされている。

 

訓練と思って耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が懲らしめることをしない子がいるでしょうか。

もしあなたがたが、だれでも受ける懲らしめを受けていないとすれば、私生子であって、ほんとうの子ではないのです。(へブル人への手紙12‐7~8)

 

よく引用されるみことばだが、「患難が忍耐を生み出し、 忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出す」(ローマ人への手紙5‐3~4)…それはそうかもしれないけれど。

祈り会で、

私は忍耐は嫌いです。

と祈られた姉妹がいた。皆、どっと笑った。

(^^)/~~~(^0_0^)(*^^)v( ^^) _旦~~(^^)/~~~(^0_0^)(*^^)v( ^^) _旦~~

少なくとも私は今、

エス様はサド(サディスト)で信者はマゾ。

とは思わない。祈りの力を信じ、これからも主を信頼して祈り続けられますようにと祈っている。もちろん、「祈りでは何も変わらへん」と私に断言した人のことも祈っている(*^^)v