「がん」という冒険(90)

年末に親しい人から言われた

祈りでは何も変わらへん。

である。

ケンカごしで言われたわけではない。

よく覚えていないのだが会話の流れからポロリと出たのかもしれない。それが新幹線に乗ってこちらに戻り、新年を迎え日が経つにつれて、忘れるどころか無意識のうちに色々考えるようになった。それはつまり、

祈って何とかなったら、苦労せんわ。

ということだろう。

それもそうやな……

いや、待て。違う。

受験祈願で勉強もしないで祈るだけの人はいない。

やるべきこと、やれるだけのことをやって祈る。

あるいは、

自分では手の尽くしようもないことを祈る。

そこまで考えると、それ以前に、

「祈りでは何も変わらへん」と断言するほど、あんたは本気で祈ったことがあるんか?

と聞きたくなった。

 

それから、その人が家族のことで悩み、

祈るしかないな。

と言ったのを思い出した。それほど前のことではない。驚いた私は、

祈りなら、私に任せて。

などと言った。「祈ってみれば」「一緒に祈ろう」…とどうして言わなかったのかと後悔した。

そうして問題が無事に落ち着くと、

祈りでは何も変わらへん。

などと、しれ~っと言う。

「祈るしかないな」と言った人間が、同じ口で「祈りでは何も変わらへん」と言うのだ。

(。-`ω-)(/_;)( ;∀;)(-_-;)(一一")(/ω\)(。-`ω-)(/_;)( ;∀;)(-_-;)(一一")(/ω\)

そうして、しみじみ思う。

人間て、こんなもんやな。

 

その人は私のがんのことをとても心配してくれたし、元気で会えたことを喜んでくれたが、それはそれ。「喉元過ぎれば熱さ忘れる」で、通り過ぎれば神も祈りも関係ないのだ。

聖書によく出てくるが、「見ても見ず、聞いても聞かず」。どうしようもない(一一")

 

祈りでは何も変わらへん。

こう断言できるほど、あんたは本気で祈ったことがあるのか?と思ったけれど、本気で祈ったら、逆にこんなことは言えない。これは頭で考えた事でしかない。

「祈り」とは神との対話であり、神を求め、神とつながることである。

いつも感心するのだが、祈るのにお金はかからない。用意するものもなければいつでも、どこでも、時も場所も選ばず、寝たきりでもできる。資格も条件もない。こんなことが他にあるだろうか?目にも見えず心だけでつながる。

だから、神なのだと思う。

 

先週、神経痛で祈り会を休んだ姉妹がいた。彼女が言うのに、

「あの日、午前中は痛くて仕方なかったのに、午後になると、すーっと痛みが引いていって、『ああ、祈られてるからだわ』って思った~(*^-^*)」

そう、私も去年の6月、乳がんの手術前夜。不安で眠れるだろうか、とずっと心配だった。ところが、眠れるどころか、以下引用、

 

手術前夜、寝不足だったが眠れずに、私は聖書を読んだり祈ったり、日記を書いたりした。6時頃に起こされるはずだから、もう数時間しかない。驚くべきことに、

恐れも不安もない。

それどころか、

心地よい羽根布団のような、祈りに包まれて眠る幸せ。

を感じていた。手術前夜に「幸せを感じる」など、ありえないはずが、感じるのだから仕方ない。そうして、入院中の主にある兄弟姉妹が、

祈られているのを感じる。

といわれるのを聞いたことを思い出した。

これが、きっと、そういうことなのだろう。

そんなわけで、手術前夜、私はなぜだか幸せだったのである。

 

結論、

祈りでは何も変わらへん。

こういう人は可哀想である。

(^^)/~~~(^0_0^)( ^^) _旦~~(*^^)v(^^)/~~~(^0_0^)( ^^) _旦~~(*^^)v