「がん」という冒険(62)
「遅れてすみません!」
ドアを開けて部屋に入った私は、
「ああ、◆(私の本名)姉妹、ここです」
★姉妹の声が、ベッドの方からではなく台所の方から聞こえる。
「転倒してしまったんですが、大丈夫です」
転倒???
しかし、その声は極めて冷静で穏やかである。私はフィクションの世界に引き込まれるように声に近づく。確かに★姉妹はコンロの前にあおむけに倒れていた。(56)で紹介した95歳、一人暮らしの★姉妹である。
「慌てないで大丈夫ですから、私の言う通りにしてください」
高齢者95歳の転倒、それは一大事のはずだが、★姉妹は全く動揺していない。痛くないはずがないのだが、苦しそうでもない。
「はい、どうすればいいのですか?」
「まず、私の傷口から出ている血が止まっているか流れているか、見てください。それによって対応が違います」
左頬の上部に傷があるが、血は凝固している。
こんな95歳がいるだろうか?有名女子大の物理化学科を出たといっても、それは70年以上も前のことである。もっとも、教員の資格も取られ、学習塾の講師や80代まで大学受験生の家庭教師をされていた。とはいえ、このような状態でこんな冷静な判断を下せるというのは、やはりフィクションの世界だと思う。自分がドラマのなかにいるようだ。
「血は止まっています」
「止まってるわね。それならよかった」
止まっていなければ医者を呼ばなければならないが、止まっているなら大丈夫。そうして、どうしてこのようなことになったのか説明を始められた。肉団子入りのトマトスープをコンロで作っていてふらつき、転倒したという。火は消えている。そうして、
「言葉はちゃんと出ていますか?もつれたりしてませんか?」
「していません」
「感謝ね」
「私がこのタイミングで来たというのも不思議ですね」
「すべて主のご計画なのね。主がなさったこと。…イエス様、ありがとうございます」
天に向かって声を上げられた。
★姉妹はひと月前にも室内で転倒された。夜中の1時半で、近所に住む息子に電話しようとすればできたが、真夜中に起こすのは申し訳ないと4時間待ったらしい。そうして一人で繰り返し賛美歌を歌った。
そういうわけで、★姉妹は今回も落ち着いておられる。2人で主に感謝の祈りを捧げてから★姉妹のテーマソングのような賛美69番を歌う。
★姉妹は転倒したままで、そこでやっと、息子さんを呼ぶことにする。暗唱される11桁の番号を私がスマホでプッシュする。ちなみに、血が流れたままなら医者に電話するのだが、そうなると救急車を呼ばれて大げさなことになる。確かに、気づいた時には施設入所の手続きが終わっていそうだ。
間もなく来られた息子さんは★姉妹に優しい声をかけるでもなく、私に会釈をして★姉妹を抱き起こすと椅子に座らせ、「仕事があるから」と帰ろうとする。すると、
「もう、これが最後になるかもしれないから。世話になったね、ありがとう」
\(゜ロ\)ココハドコ? (/ロ゜)/アタシハダアレ?
どこまでが芝居でどこからが本音なのか???
息子さんは返事もせずに帰った。母親を施設に入れたい息子と、絶対に施設には入りたくない★姉妹である。
これはまるで、喜劇ではないか。
それから★姉妹は、ゆっくりゆっくり壁の手すりをつかみながらベッドに戻られた。私の読み上げる聖書を聞き、肉団子入りのトマトスープを食べ、私の持参した巨峰を「とっても美味しい」といいながら召し上がった。
週に一度くらいの割で★姉妹を訪問するようになって間もなく、上記のようなことが起きた。考えれば考えるほど不思議である。打ちどころが悪ければ、どうなっていたかわからない。また私が来なければ、手の届く範囲に受話器もなく、いつ発見されるかもしれなかった。それなのに、何事もなかったかのように平然といられるものだろうか?
また、私は約束の時間を30分ばかり遅刻した。★姉妹が転倒していた時間は数十分だったというから、或いは、私が遅刻していなければ★姉妹は転倒しなかったかもしれない。そう思った時、転倒されてからの★姉妹の姿、
あれは、主が私に見せられたのだ。
返す返すも、そう思われてならなかった。
与えられた(残された)時間を大切に、(生きたい、というより)精一杯生きようとする★姉妹の生き様を、主は私に見せられたような気がした。
「手すりがないから。手すりを作ってと、随分前から●に言ってるのにまだ作ってくれないの」
近所に住む息子さんの名を呼ぶ。