「がん」という冒険(20)

胸のしこりに気づいたのが去年の2月、がんの検査を受けたのが11月2日でその結果、がんの宣告を受けたのが11月16日。

12月1日から抗がん剤治療が始まった。その治療も中盤にさしかかり、恐れていた脱毛で頭髪がハゲるということも経験した。

がん宣告×抗がん剤×ハゲ

が一挙に押し寄せるという、およそ、自分がどうなるのか想像もつかない事態となったが、このようにいそいそとブログ更新し、平安である。なんというか、

そんな(平安な)自分を自分で眺めている。

というところである。

「がん」という忌まわしい箱のフタを開けてみてびっくり!!!

不安定でもなく日々、喜び感謝できることが、不思議であり、感謝するよりない。

 

最後に風邪をひいたのがいつだったのか、思い出せない。

頭痛や腰痛も知らない。

風邪もひかないのに「がん」にはなるのか?

と、これは今も思う。

喫煙者でゴミ屋敷のような仕事場に棲息し、不規則な生活を送る夫ではなく、私ががんになった。(夫はがん検診など受けていないから、既にがんであるかもしれない)

夫はがんの係累をもち、がんに対する恐れはある。私ががんに対して動じないのを「すげぇ」と言った。私のウィッグを私のリクエストに応じて、

「一回だけだぞ」

と断って、かぶって見せてくれた。

「がんになったらどうする?」

と聞いたら、

「カツラかぶって抗がん剤治療受ける」

と、ゴタクの多い夫が即座に答えたのには驚いた。

ともかく、今では、

私が夫より先にがんになってよかった。

と思う。これが逆だったら、お互いに地獄を見たような気がする。

これも感謝である。

 

どうして、不安でも不安定でもないのか?

がんの検査を受け、その結果を待つ病院の待合室。その時の自分を思い出す。待合室は日当たりがよく、私は、

天国行きの切符を手にしている。

という安心感に浸っていた。

切符をしっかりと握りしめている。

という実感があった。

死んだらどこへ行くのか?

死んだらどうなるのか?

そんな恐れも不安もない。

自分が信仰にはいって今まで、信頼して祈り続けてきたものが本物であり、唯一、信頼に足るものであるという実感に包まれていた。

いざという時、アテにならない人(もの)は多い。

ましてや、死を前にした時、何をアテにできるだろう?

しかしイエス様は違う。

苦しい時ほど、「わたしを求めなさい」と言われ、守ってくださる。

死を前にしても、死は天国へ通じる門であり、天国へ迎え入れてくださるのである。

死は終わりではない。

エス様を信じれば、この世の苦しみから解放され、最高の場所に旅立てるのだ。

なんという恵み…。

 

がん宣告×抗がん剤×ハゲ

そこへ更に、

娘の受験×コロナ

が増し加わった。

疾風怒濤の中、だからこそ、

主の守りを実感できる。

主は「光」であると聖書にある。闇の中でこそ光が力を放つように、主が光り輝いてくださっている。

主はおられる。

「わたしはここにいる」と語ってくださっている。

(注・聖書では「わたし」は主を指す第一人称である。「私」ではなく「わたし」と表記されている)

 

わたしは、世の光です。

わたしに従う者は、決して闇の中を歩むことなく、命の光を持つのです。

ヨハネ福音書 8‐12

 

恐れるな。

わたしはあなたとともにいる。

たじろぐな。

わたしがあなたの神だから。

わたしはあなたを強め、あなたを助け、

わたしの義の右の手で、あなたを守る。

イザヤ書 41‐10

 

まことに、私たちの神、

主は、私たちが呼ばわるとき、

いつも、近くにおられる。

申命記 4‐7

 

わたしを呼べ。

そうすれば、わたしは、あなたに答え、

あなたの知らない、

理解を越えた大いなる事を、

あなたに告げよう。

エレミヤ書 33‐3

 

すべて、疲れた人、

重荷を負っている人は、

わたしのところへ来なさい。

わたしがあなたがたを休ませてあげます。

マタイの福音書 11‐28