祈りは賭けのようなもの(3)

私と同じ集会(教会)に集う93歳の姉妹(=女性信者)が去年、イエス様をお伝えする本を自費出版され、私は読んで感動し、この夏、再読して、やはり感動したのである。

歯科医になったその姉妹は、若い頃から人生の意味や、「死」について考え、悩み続けた。そうして、人生半ばにしてイエス・キリストと出会い、永遠の命を得られたそれにまつわるエピソード、人々との出会い…が、まっすぐに綴られている。

再読しながら、「これを読んでほしい」と思う人々の顔が思い浮かんだ。もちろん、

エス様を知って、この世の苦しみから救われてほしい…と私が願う人々である。

そのなかにHさんがいた。

私がキリスト者になって十年あまり。年を経るごとに、エス様と出会えてよかった、救われた…と思う。イエス様を知らなければどうなっていただろう、と思う。

そんな思いは、私にとって大切な人にも、イエス様を知ってほしい、という願いにつながる。そうして、主イエスの導きを祈るのである。

Hさんとはもう、知り合って20年以上になる。「○○の会」みたいな会合で出会ったのだが、どうして親しくなったのかは覚えていない。私は独身の娘さんで、向こうは職人のおじさんだった。16歳からの丁稚(でっち)修行を経て独り立ちし、工房を開いていた。苦労をものともしない、自然を愛する、人を裏切らない誠実な人柄だった。

人との付き合いも、20年も続けば歴史がある。私は結婚して母となり、Hさんは妻を亡くされ、孫ができた。

その間、キリスト者になった私は、Hさんにイエス様を紹介しようとした。無理に押しつけた覚えはないのだが、

「俺は仏教だから」

と拒絶された。祈ってしたことだから、受け入れられなかったのは仕方ないと思った。

それから、Hさんとのやりとりは、やんわりやんわりと続いたが、最近では年賀状のやりとりだけになっていた。

エス様を知ってほしい。

その思いをHさんに対して持ち続けたのは、Hさんの誠実な人柄と、Hさんからの手紙に、死への恐怖が書かれてあったことが、私の頭に張り付いてしまったのだ。新聞の訃報欄を見るのも怖い、と書かれてあった。Hさんの「叫び」だった。

この問題を解決できるのはイエス様しかいない。けれど、「俺は仏教だから」とシャッターを下ろされてしまったから、私は一人で祈っていた。祈るしかなかった。

そうして、この夏に再読した93歳の姉妹の書かれた本を、Hさんに読んでほしいと思った。Hさんを死の恐怖から救い出してくれるはずだ。

本を送る前に電話した方がいいんだろうな、とは思う。

Hさんの元気な声を聞いた上で、送るのが望ましい…とは思うものの、

電話する勇気が出ない。(もともと電話をかけるのは苦手なのである)

(-_-)/~~~ピシー!ピシー!

祈っても電話する勇気は沸いてこない。

この本をHさんに送ることが、主の御心(ご意志)でないなら閉じてください。(本を送れないようにしてください)

とも祈った。

一大決心のもと、本に同封する手紙を書いた。手紙を書くなどお手のものだが、この手紙は大仕事だった。この本を送る私の思いを書き、「この本がHさんに無事に届く確証はありませんが、すべては主にゆだねます」と結んだ。そして、

本を送った。

今年、Hさんから年賀状を受け取っただろうか?

コロナで仕事も大変だろう。

80歳くらいのはずだから、病気の可能性も、もう、この世の人ではないかもしれない可能性もなくはない。

とにかく、数年来の心の重荷(気がかり)を主の前に下ろす。

余計なことは考えず、すべて、主にゆだねた。