祈りは賭けのようなもの(1)

大学1年の娘βの夏休みが明け、後期がスタートして間もなくのこと、

「あれがないあれがない!!!」

「あれ」というのは、財布やカード類など貴重品一式をまとめて首から下げる「あれ」である。

そういうものは「決まった場所」に置け、と私は再三言っているのだが、聞こうともしない。

いつも、床に投げ出されている。

それ見たことか…である。

私は知らぬ顔をしていたが、

「あれがないと大学に行けない(/ω\)」

それはそうだろう。βの気持ちになれば哀れでもある。

私は祈った。主が「あれ」を見つけてください、という意図なのだが、

エス様、どうか、βに「わたしはここにいる」と語ってください。

と祈ってからβに、

「イエス様に祈れば?」

と言った。

つまり、βがイエス様に祈る→「あれ」が見つかる→「わたし(=イエス様)はいるよ」とβに語ってくださった、ということなのである。

一応(がつく)イエス様を信じているというβは、ひと言、簡単に祈った。

さて、ここで「祈り」は賭けだと思う。

どうか、βに「わたしはここにいる」と語ってください。

と私は祈った。

聖書には、主の思い(御心(みこころ))にかなった祈りならば「聞かれる」(かなえられる)とある。

したがって、自分本位の「~してほしい。~してください」という祈りは、御心にかなっていないということもある。

そういうこともあり、私はあえて、

βの「あれ」を見つけてください。

ではなく、

(主が「あれ」を見つけてくださることによって)βに「わたしはここにいる」と語ってください。

と祈ったのである。

これは、御心にかなった祈りのはずだけれど、主がいつ、どのようにして祈りに応えてくださるのか、はわからない。

わからないけれど、とにかく、祈った。(どうなるかは知ったこっちゃない(-_-メ))

賭けた。

このまま、「あれ」が見つからず、βは大学に行けないかもしれない。

ところが、βが祈った数秒後、

「あった~!」

私自身、信じられなかった。

βはそのまま、出て行った。