祈りは賭けのようなもの(4)

イエス・キリストを信じるクリスチャンというのは、イエス・キリストに従う者、弟子でもある。

なので、エス様の教えやすばらしさを伝えるのは、我々の務めなのである。

私が礼拝に通うようになったばかりの頃、

サンデークリスチャン

という言葉を教えられた。

日曜日に教会の礼拝に行き、聖書を読み、讃美歌を歌う。

典型的なクリスチャン像だろう。

しかし、月曜になれば「この世の人」に戻り、イエス様など忘れている。

なるほどな~と思った。

もちろん、そういう人は、真のクリスチャンではない。

私が、「俺は仏教だから」とシャッターを下ろされたHさんに、一大決心で手紙を書き、本を送ったのは、エス様の弟子として、「責任」を感じたからだった。私がHさんにイエス様を伝えなかった(一度は伝えたが)ことで、Hさんが死の問題に苦しみ続け、死後、永遠の滅びにおちいるとしたら…それを思うと、いてもたってもいられなかった。

エス様の弟子として、やるべきことをやる。

福音の種まきである。その種が実を結ぶかどうかは、イエス様にお任せ。

そんな思いで、(電話はかけずに)手紙と本をHさんに送った私は、大仕事をやり終えて満足した。

後は知らん。

(^。^)y-.。o○

そうしたら、翌週、Hさんからたくさんの梨が送られてきた。Hさんの庭でとれた梨である。以前から、よく梨を送っていただき、関係がぎくしゃくするようになってから、私の方から、「恐縮してしまうので」と遠慮してから、送ってこられなくなった。

Hさんが送ってくださる梨はおいしくて、梨のおいしさを知り、梨を見るとHさんのことを思い、祈った。そのことを、今回の手紙に書いたのである。

梨に添えられていた手紙を読んで驚いた。

「うれしいお手紙、命の糧です」「私のために祈ってくださっているとのこと、ありがとうございます。うれしいです」「あなたの祈りがとどいて、この幸せだと思います」

(@^^)/~~~(#^.^#)(^。^)y-.。o○(*^▽^*)

私の「祈り」に感謝してもらえた。

信じられなかった。信者ではない、一般の人にとって「祈り」とは、「気休め」みたいなものではないかと思う。「祈っています」と言われても、それほどの重みは伝わらないと思っていた。私の祈りが届いた……と思う。

本の感想などは書かれていなかった。それはもう、わからない。ただ、ただ…(この世の人でなくなっていたかもしれない)Hさんがお元気で、手紙と本が届き、私の祈りにHさんが応えてくださったことに、感謝感激、夢のよう……だった。そうして、

耳はうんと遠くなり、くやしいです。

とあった。驚いた。電話で確認すればいいのに、電話ができす、一方的に手紙と本を送ったことを気にしていたが、

電話しなくてよかったのだ。

主に感謝した。

仕事も去年より増えて、100%こなしているとのこと。そして、

時期になったら(庭になってる)キーウィを送ってくださるらしい。

主は生きて働いてくださる、ことを再確認した。