祈りは賭けのようなもの(2)

結局、首からかける財布類セットが見つからず、大学に行けずにベソをかいていた娘β、それを見かねた私が主に祈り、見事に財布類セットが見つかったわけなのであるが、帰宅したβは特に感謝の念もなく、

そういうこともあるんじゃないのぉ~

という感じであった。

βは一応、イエス様を信じていると言う。「そういうこともあるんじゃないのぉ~」が、生意気盛りの反抗心なのか、本音なのかはわからない。

ともかくも、私は、私の祈りに、主が即座に応えてくださったことに、感謝感激だったのである。

祈りは賭けのようなもの…。

あの時、ベソをかくβに私が「祈ってみれば?」と言って、βが祈り、そのまま、いつまでも財布類セットが見つからなければどうなっていたのだろうか?

βはベソをかいたまま、大学に行けなかったのだろう。

βは主から離れていったかもしれない。

それはそれで、主の御心(主が何を望まれているか)は私には計り知れないから、くよくよ考えない。

主の成さることは最善。

と信頼する。それが信仰であり、「賭け」のようなものだと思う。

βの高校の卒業式のことは何度か書いた。

卒業式の朝、目覚ましが鳴っているのにβは起きない。

珍しいことではない。βはいつも起きない。いつも起きなくて、遅刻を連発し、卒業させてはもらえたものの、開校以来の「遅刻者記録」を大幅に塗り替えたことは間違いない。

\(゜ロ\)ココハドコ? (/ロ゜)/アタシハダアレ?

さて、大学に合格したものの、このまま大学生活が始まって、無事にβが大学生活を送れるとは、私はとても思えなかった。

高校の卒業式の朝、起きられない。

(-_-)/~~~ピシー!ピシー!

「主がβを起こしてください」

と祈った。

私は起こさない。

これは、「賭け」だと思う。

エス様を信頼し、おまかせしているから、必要なら、

主がβを起こしてくださる。

このままβが眠り続け、卒業式を寝過ごすようなら、

それ(高校の卒業式を寝過ごしてしまった)を教訓として、βの新しい大学生活がスタートするのかもしれない。

私はPTAの役員もしていたから、βが寝続けていても高校に行かなくてはならず、βのいない卒業式に出席しなければならなかった。

卒業式の支度をしながら、寝続けるβを起こすのは、

主を信頼していない。

ことになると思い、葛藤する。

苦しかった。

主がβを起こしてください。

祈るしかない。

先のことはわからない。祈るしかない。

そうして、βは起き出した。

朝食を食べる時間もなく、卒業式祝いの紅白饅頭を、「食べてもいいですか?」と担任に許可をもらい、βは卒業式の紅白饅頭を食べたのである。