見よ。わたしは新しい事をする。(1)

先の事どもを思い出すな。
昔の事どもを考えるな。
見よ。わたしは新しい事をする。
今、もうそれが起ころうとしている。
あなたがたは、それを知らないのか。
確かに、わたしは荒野に道を、荒地に川を設ける。
イザヤ書 43:18‭-‬19)
2014年1月、新しい日記帳の扉に書き留めた聖書のみ言葉である。
見よ。わたしは新しい事をする。
今、もうそれが起ころうとしている。
どれほど励みにしたことだろう。
確かに、わたしは荒野に道を、荒地に川を設ける。
どれほど、夢見たことだろう。
7年前…娘達はまだ小学生で、中学受験を前にしていた。
そうして、その2014年の日記を読み出せば、
実にもう、しっちゃかめっちゃかで、夫との関係も最悪で、たとえば、
「子ども達の前で煙草吸うのをどう思ってるのよ」
と私が問えば、
「あんただって、子どもに聖書を読ませてるじゃないか」
と夫は答えたらしい。そう、確かにそう言った。
「煙草は法に触れないし」
(聖書だって、法には触れないよ!)
……とまぁ、私は口論する気にもなれず、だんまりしたのだった。
夫は娘達への期待値が高く、将来について、
「(現浪人生の)αは最低でも京大」
「(現N大生の)βはマサチューセッツ工科大学
と本気で考えていたのである。
そんな夫のことを思えば、
随分、変えられた。
聖書では、人が天からの試練を与えられて、
砕かれる。
とか
練られる。
とか言う。
本当に、それは拷問かと思うほど、容赦ないのである。
そんな、拷問のような試練(=娘達の不出来)にあって、
夫も音を上げた。
大学受験の時には、
「期待してがっかりするのに疲れた」
と言わしめたのである。
今、娘体の成長を、2人で驚き、喜べている。
改めて思う。
娘達の出来が良く、
αが京大。
に進んでいたら、どうなっていただろう。
それは、とても恐ろしい。