神頼み(1)

私の信仰を否定するわけではないが、全く認めようともしない夫は、この正月、娘達に神社のお守りを買い与えた。

気休めだけど。

と……。

広く知られていることだが、イエス・キリストは唯一絶対の神であり、他のものを信じることは偶像崇拝として、聖書では固く禁じられているのである。

それを知りながら、ぬけぬけと娘達に合格祈願に神社のお守り買い与えるとは、

私にケンカ売ってんのか~!?

と腹も立ったが、何も言わず、お守りを捨てることもしなかった。

気休めねぇ、ほんと、気休めだよ。

でも、「気」を休めることも大事だと思う。お守りごときで「気」が休まるなら、黙殺しよう。そして、「私にはどうしていいのかわかりませんから、どうすればいいのか教えてください」と祈った。

溺れる者はワラをもすがる

なのだろう。

振り返れば、何十年も前、私も大学受験にお守りを買った。

それも1個や2個ではない。じゃらじゃらとカバンにつけていたような記憶がある。

「いっぱいつけると、神様同士がケンカしてご利益なくなるねんて」

とクラスメイトに言われた記憶があり、「なるほど」と納得して減らしたかもしれない。

しみじみ……………………………………………………愚かだった。

「苦しい時の神頼み」と今でも言うし、今年も多くの受験生がお守りつけて受験に臨んだことだろう。

あれから〇十年後、娘達の大学受験に際して、私は

神である主イエス・キリストに頼んだ。おまかせした。

それは、

自分の希望(娘達を〇〇大学に合格させてください)や思い(せめて××大学には合格できますように)は捨て、イエス様が最善の道をひらいてくださる。

と信頼することである。

自分の希望や思いを捨てる、というのは容易なことではない。しようとしてできるものではない。

本音では(〇〇大学に行かせたい)と思いながら、口先で「主が娘達を最善の道に導いてくださいますから、感謝します」と祈っていても、

主はうわべでなく、本心を見抜かれるので、そんな祈りは無駄である。

今まで娘達について、本人達の了解もなく、色々書いてきた。

それは………私が娘達に対する「希望」や「思い」を捨てることになる過程でもあった。

\(゜ロ\)ココハドコ? (/ロ゜)/アタシハダアレ?

(高校は休みになり)起きてる時間より寝てる時間の方が長い受験生って、何なのですか?

エス様に叫んだ。叫び続けた。

本音のところでは、

コロナ禍で大学受験どころではなくなるのでは……………………

と密かに期待していたのだが…………………

それも起こらなかった。