祈りは聞かれた(2)

「だから、明日のための心配は無用です。明日のことは明日が心配します。労苦はその日その日に、十分あります」(マタイによる福音書 6:34)

という聖書の言葉がある。

思えば、「明日のための心配は無用です」――まさにそのとおりである。明日どころか、何カ月先、何年先、何十年先……と遠い未来のことまで我々は心配して、予測して、考えを巡らし、対策や計画を立てたりする。が、明日、生きている保証さえ実はないのだし、心配したところで、何も解決などしないのである。死ぬほど悩んでいる問題が、明日にはあっさり解決しているかもしれない。

今、現在のことを誰も心配しない。心配するのは、「今(現在)」ではなく「先(未来)」のこと。要するに、未来のことをあれやこれやと思い悩むな、ということだと思う。未来ではなく、「その日その日に十分ある」労苦としっかり向き合って、「忍耐せよ」ということではないか。

忍耐――聖書のなかで繰り返されるのは「忍耐」である。

「そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです」(ローマ人への手紙 5:3~4)

有名な聖書の言葉である。いつだったか、祈り会で、「忍耐、忍耐とイエス様は言われますが、私は忍耐は嫌いです!」と祈られた姉妹(=女性信者)がいたが、忍耐が好きな人がいるとすれば、それは多分、マゾである。誰も忍耐など喜ばないが、成すすべなく、どうしようもなく、忍耐するしかないから忍耐するのである。

前置きが長くなったが、聖書にあっては、先々のことでなく、「その日その日に十分ある」労苦と向き合え(=忍耐せよ)ということだと思う。

「だから、明日のための心配は無用です。明日のことは明日が心配します。労苦はその日その日に、十分あります」

冒頭の「だから」(その理由)については、ひと言で言えば、我々に本当に必要なことはイエス様がすべてご存じであるから、我々がイエス様を信じて、すべてをお任せし、天国に行くことを求めれば、必要は与えられるから大丈夫。

とにかく私には、娘達のやることなすことが、

手も足も出ません。

\(゜ロ\)ココハドコ? (/ロ゜)/アタシハダアレ?

だったので、ひたすら忍耐するしかなかったのである。

受験生なのに、よく食べよく寝て、2時間の長風呂で……。

(高校が休みになれば)起きてる時間より寝てる時間の方が長い。

家庭教師が来る時間にも寝ていた。

ゴミはゴミ箱に捨てない。

何も考えない(ように見える)。

他に比べる子どももなかったから、自分の当時を思い出した。

すると……

私って、賢い子やってんなぁ……

と自分を見直し、複雑な心境であった。

とにもかくにも、我々夫婦は、娘達の受験手続きから入試日の受験場にまで付き添い、「試験を受ける」以外はすべて、親がかり。

仮に大学に入学できたとしても、

大学生活送れるわけないやろ~~~(/ω\)

だったのである。