真理とは…(1)

クリスチャンになって一番驚き、そして戸惑ったことは、
聖書の価値観と、現実社会の価値観は真逆。例えば、有名な山上の垂訓(マタイによる福音書)から。
5:3 心の貧しい人は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。 5:4 悲しむ者は、幸いです。その人たちは慰められるから。
5:6 義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるから。
5:10 義のために迫害される者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから
5:11 わたしのために人々があなたがたをののしり、迫害し、ありもしないことで悪口を浴びせるとき、あなたがたは幸いです。
5:12 喜びなさい。喜びおどりなさい。天ではあなたがたの報いは大きいから。あなたがたより前にいた預言者たちを、人々はそのように迫害したのです。
神の視点と我々の視点とは180度違うと言っても過言ではないらしい。先日のことだ。
私が礼拝に通う集会所には急な階段があり、そのため高齢者にはきつく、そのために礼拝に来れない人もいる。
(新しい集会所が備えられるようにと、皆で祈っている)
そして、久々に礼拝に来た70代姉妹が階段で転び、救急車で運ばれた。
どうして…?
思わず私は呟いた。
礼拝に来たお蔭で、救急車で運ばれるなんて…と。すると、すかさず80代のF姉妹が、
「ここで転んだから、救急車を呼んで運んでもらえた。(70代姉妹は一人暮らし)病院で検査されて、悪いところも見つけてもらえる」なるほど…凄い。
真理である。
70代姉妹は最近未亡人となり、その寂しさもあって礼拝に来たのであった。身体に不調があっても、病院に行く気力などないであろう。
これが多分、神の視点なのだ。聖書には真理が書かれてあるという。だから、永久不偏であり、古びることがない。
このブログでも書いたと思うが、
病気を知らぬ健康体では、健康が当たり前で有難みなど感じない。
逆に、病気になれば、病気の癒えた喜びを知り、健康に感謝できる。貧乏を知らない恵まれた人間には、贅沢など当たり前。貧乏であれば、ささやかな贅沢を喜び、感謝できる。
たまに食べるから「ご馳走」なのであり、毎日食べれば、どんな贅沢品でも「ご馳走」ではなくなる。
なべて、
この世で「恵まれている」ということは、真の意味で「恵まれていない」のではないか。と思うようになった。
身近なことを考えれば、例えば、
鍵や財布、携帯…大切なものを失くしてしまった。
大わらわである。どうして、どうして…(こんなことになった)!
後悔もするけれど、
見つかった時の喜び、安堵は…計り知れない。一方、
失くしてしまわなければ、失くしていないことを「有難い」とは思わない。
考えてみれば、不思議だ。聞いた話だが、
ガンで余命宣告された姉妹が、見舞いに来たベック宣教師に、
「羨ましいでしょ。もうすぐ、私、イエス様に会えるのよ」
と言われたらしい。