毎日が宴会(3)

久方ぶりに礼拝に行った。

先月、韓国で騒動があったことで、夫から礼拝NG出されたこともあり、しばらく休んでいたが、会いたい人もあり、様子を見たい思いもあって行ってみた。

本部のある吉祥寺の集会(教会とは呼ばず集会という)では、高齢者や持病のある人、公共の交通機関を利用する人などには、感染を避けるためにインターネットによる自宅礼拝が推奨されているが、私の通う横浜集会は、特別な連絡もなく、こじんまりと行われているというのは知っていた。

私の通う集会は、名簿もなければ連絡網というようなものもない。礼拝の出欠も自由だし、休んだからといって誰も何も言わない。イエス・キリストを頭(かしら)とした家族のようなもので、年齢も職業も関係なく、静かに集って讃美歌を歌い、メッセージを聴き、祈るのである。

 

出席者はさすがに少ない、いつもの半分以下で大方マスクをしている。マスクしたまま讃美歌歌うのである。

「また、彼らが食事をしているとき、イエスはパンを取り、祝福して後、これを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取って食べなさい。これはわたしのからだです。」

また杯を取り、感謝をささげて後、こう言って彼らにお与えになった。「みな、この杯から飲みなさい。これは、わたしの契約の血です。罪を許すために多くの人のために流されるものです。」(マタイの福音書26‐26~28)

イエス・キリストを主と受け入れた者の間で交わされる聖餐(せいさん)式レオナルド・ダ・ヴィンチ『最後の晩餐』で有名だが、我々は回ってくるパン(=イエスの肉)をちぎって食べ、カップのぶどうジュース(=イエスの血)を回し飲みするのである。(義務ではない)

が、この日、回ってきたのは切り分けられたパンと、紙コップに注ぎ分けられたぶどうジュース…。

終了後には、軽食の交わり(歓談)があるのだが、軽食は出なくなり、自然解散。

淡々と始まり淡々と終わる。

帰り、近くのドン・キホーテで買い物していたら、最近、糖尿病で入院していたと聞いていた姉妹(=女性信者)の姿を見かけ、声をかけてスターバックスに入った。退院後は毎日、血糖値を計り、インシュリンを打っているという。

糖尿病は原因もわからず、まさかのまさか…だったが、病院から医師、スタッフ…病院食も美味しく、すべてにおいて「主の備え」があったという。「人間は人間から生まれてくるんじゃないよ」とも言った。「糖尿病」を通して、主の恵みを存分に経験したらしい。主とは、そういうお方なのだと、改めて思う。

ちょうどこの日、私は彼女に以前もらった帽子を被っていた。これも主の心憎い「計らい」のような気がした。