祈りは聞かれる(2)

「事実、この世が自分の知恵によって神を知ることがないのは、神の知恵によるのです」(コリント人への手紙Ⅰ 1‐21)

全くもって唸(うな)らせられるみ言葉(=聖書の言葉)である。

人が神を知るのは、人の知恵(努力)ではないという。つまり、神を知ろうとしてどんなに聖書を読み、勉強したりしてもダメということ。知識として神を知ったところで、それが神を受け入れるまでには至らない。

10年前の3月、私はスーパーで娘達の幼稚園で一緒だったKさんに会った。

もう卒園していたし、子ども同士が親しかったわけでもなく、個人的には話をしたこともなかった。

ただ、彼女が舞台の仕事をしていたという噂を聞いていて、私も舞台公演に向けて活動していたので、話しかけてみたのである。――これが、私が信仰に入るきっかけとなった。

茶店で話をするうち、彼女がクリスチャンでご主人が牧師の資格をもち、毎週日曜、家で礼拝を行っているという。

何の迷いもなく、私は彼女の家庭礼拝に通い始めた。

私は若い頃から神を求めていたし、3人のクリスチャンと知り合って礼拝にも何度か行ったものの、何も変わらなかった。

付け加えれば、私の大学はミッション系で、キリスト教概論」という講義が間違いなくあったが、月曜の1限めという一番眠い時間割であったことを記憶しているだけで、よく単位が取れたものだと今更ながら驚く。

結婚して母親となっても、私は相も変わらず人生に迷い、虚しさのようなものをどうしようもなかった。

K宅で行われる礼拝は、K夫婦と3人の子ども、3人の子の友達とその親、総勢10名余りの小さなものだったが、中身がすごかった。

聖書について語られるメッセージ(説法)が抜群に面白く、また、Kさんが語る祈りの言葉には、心洗われるような心地がした。

礼拝は昼食をはさんで行われ、昼食前はKさんが、昼食後にはご主人がそれぞれメッセージをされた。

この礼拝を通して、私は聖書の素晴らしさを知った。

聖書は私が今までわからなかったことに、すべて応えてくれた。(今まで誰も応えてくれなかった)

そうして、私は主を受け入れ、クリスチャンとなった。早かった。

思えば不思議なことばかりなのだが、当時私は日曜ごとに、早起きして礼拝に出かけていたのであるが、それを当時、小学校2年の娘たち(双子)がキャッチしてついてきたのである。

朝寝坊で、毎朝、苦労して起こしていたのに、日曜の礼拝には起きてついてくる…。

子どもは子どもで、聖書を学び、讃美歌を歌い、娘たちは娘たちでイエス様を知り、イエス様を受け入れていた。まだ8歳。

8歳でイエス様と出会えた娘たちを、羨ましく思ったものである。

聖書とは、人生を生きるためのテキストだと思った。幼い娘たちに聖書を与え、イエス様を紹介できたことで、私は母親としての役割を大方果たせたような心地がした。

娘たちとは毎日、祈り、讃美歌を歌った。娘たちは、よく物を失くす。

「~がない!」

その度に3人で祈った。そうすると、嘘のように見つかり、私たちは安堵して感謝した。

 

 

 

 

 

 

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