祈りは聞かれる(1)
気がつけば、イエス様を知るようになって10年めである。
クリスチャンとして信仰をもつようになって…ということである。
10年が短いのか長いのかはわからない。
少なくとも、長くはないと思う。
信仰というものがどういうものか、ようやくわかりかけてきたと感じるこの頃なのである。
それこそ、クリスチャンになって間もない頃、実家に帰った時に弟から、
「なんで神様いると思うの?」
と聞かれた。今から思えば素朴な質問である。私の家系には(嫁ぎ先にも)クリスチャンはいない。
当時の私は多少うろたえ、返答に窮した。信仰の入り口に立った喜びや感動はあったものの、それを具体的な言葉にはできなかった。
「神様がいない、っていう証拠はないやん」
変な答えである。何の説得力もない。
今の私なら、はっきりとこう答える。
「祈りに応(こた)えてもらえるから」
「祈りに応えてもらう」ことを(キリスト)業界では、
祈りが聞かれる
という。祈りとは神との対話であり、神が我々の祈り(=願いや叫び)に耳をすまし、それに応えてくださるのである。
「キリスト教はご利益信仰ではない」といわれる。相手が神なら当然だろう。神が御用聞きのように、やすやすと我々の願いをかなえてくれるわけがない。
また、願いのかなうことが、必ずしも我々の幸福に繋がるとは限らない。身を滅ぼすこともある。
「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました」(詩篇119‐71)
苦しみに会いたいと願う人は、あまりいないだろうが、確かに、幸運やしあわせより、苦しみや苦労から学ぶことは多い。
そんなわけで…祈ったところで、
〇Yes!(すぐにかなえてあげる)
〇Wait! (もう少し待ちなさい)
〇No!(その願いはあなたにとって良くない)
などの返答があり、その返答をどのように受け取るのかにも年季がいることを知りました。
そんなわけで…イエス様との出会いから10年…を、振り返ろうと思います。