涙を知らない者は神を知らない

ブログ読者の皆様

新年明けましておめでとうございます。
更新も間遠になりながら、アクセスしてくださる皆様に心より感謝申し上げます。2010年にスタートしたこのブログ、8年目に突入しました。
なかなかマメに更新は出来ませんが、何を書くか、テーマ探しから始まって、読み応えのある内容を提供したいと切に念じています。(書き出す前に祈ります)
心を込めて更新しておりますので、本年もどうぞよろしくお願い致します。
アクセス数の割に「コメント」してくださるのが約1名で…。
「コメント」の方もどうか、お気軽に…。読者様の顔を見せてください!(^^)!
カツラー様も、勿論、今年もよろしくお願いします!


三浦綾子著「ちいろば先生」で有名になった榎本保郎牧師著、
旧約聖書 一日一章」「新約聖書 一日一章」(共に主婦の友社

を、一日の始まりに読んでいる。
旧約、新約…共に、聖書すべての章ごとに、榎本牧師のメッセージが語られている。
合わせて聖書を読む。今のところは、新約聖書2章と旧約聖書1章で読み進んでいる。
これが…私の日々の礼拝となった。
今日読んだ「コリント人への第二の手紙12章」についての牧師のメッセージに、ある姉妹(姉妹=女性信者)のこんなエピソードがあった。
村に誰一人、(キリスト教)信者はおらず、古い因習の中で育った彼女は、家族の看病のために生まれてきたようなもので、自分の青春のいっさいを、おばあさん、お父さん、今はお母さんの看病に費やし、礼拝出席もままならぬ生活を余儀なくされた。
彼女は、
「私も女です。きれいな服も着たい。街へ遊びにも、買い物にも行きたい。でも、それができないまま、着飾った友達を見ると、つい寂しくなったり、悲しくもなったりもします。また、家族の無理解の時など、台所で涙をそっと拭います。そして、『神様、神様』とイエス様に泣きながらすがるのです」

彼女がどのようにして、主イエスと出会ったのかはわからないが、このようなことは想像するに難くない。
「すると、神様は必ずS先生を送って下さったり、励ましの手紙が来たり、教会員の方が見えたりするのです。今日も台所で洗い物をしながら涙を流して、『神様、神様』と呼んでいたら、夢かと思う先生(=榎本牧師)が来てくださって…。神様は本当に、私を愛してくださっているのですね」
と泣き笑いしながら語ったそうである。そして、榎本牧師も、
涙を知らない者は神を知らない。
ということを改めて知らされたという。
人間にとって涙を流す人生は出来るだけ避けて通りたい。
弱さだけ見ると、それは哀れである。しかし、
弱いところが神の力の現れるところならば、これは感謝すべきことなのだ。
と語られる。
富や名誉、成功、健康…
わかりやすい、この世的な価値が「感謝」ならば、
ご利益信仰と同じである。
「しかし主は、『わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである』と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ、大いに喜んで私の弱さを誇りましょう」(コリント人への手紙?12‐9)
(注 聖書の中では、イエスが自らを呼んだ場合にのみ「わたし」と表記される)
パウロの書いた手紙である。弱さを誇る、とは…全く、この世とは逆である。
「私が弱い時にこそ、私は強い」
と言っている。思いつくのは、礼拝に来られる高齢の方々。
病がないわけでもないし、お金があったり恵まれてる…感じでもなく、悩みを抱えている。だから、礼拝に来る。
しかし…弱弱しくない。
悩み、苦しみがあっても高らかに讃美歌を歌い、笑っておられる。
エス様が働かれてるのか、と思う。榎本牧師は、
神との出会いは、私達がまったく弱くなりきれた時、神を受け入れるより他に、何も残っていない時に初めて可能なのだ、と締めくくる。

「もうすべて終わりと思える時こそ、あなたにとって素晴らしい瞬間かもしれない。それは、あなたの弱い生をイエス様の強い御手に委ねる瞬間である」(コーリー・テン・ブーム)オランダ人の女性で、第二次世界大戦中、ユダヤ人をかくまったため、自分自身も家族も強制収容所に入れられた。ホロコースト生残者。

そういうわけで…ブログ読者の皆様、今年、試練に遭った時には、
涙を知らない者は神を知らない。
と乗り越えていただきたい。
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