必要なものはひとつだけ

今週の礼拝後、「断捨離の名人」と言われる姉妹と交わった。

(姉妹=女性キリスト信者 交わる=会話する、やりとりする)

80歳前だが、白髪をベリーショートにして、彫の深い顔立ちは外国人みたいである。

一番感心するのは表情豊かなこと。

よく笑い、よくしゃべる。

察しもいいし回転も早い。

淀(よど)まないのは「断捨離」と関係あるような気がする。

彼女は、しきりに、

「捨てなさい」

と言う。

「捨てると入ってくるから」

それはつまり、新陳代謝なのだ。

ため込まないこと、動かすこと…。

そこに風が起こる。

「引きこもり」生活者というのは、年齢に関係なく「風」がなく、淀んだままなのだろうと思う。

「片づけられない」というのは、「捨てられない」と=(イコール)のような気がする。

私は「捨てられない」わけではないが、「捨てる」(覚悟をする)のが面倒で放置していた。捨てる覚悟をするにはエネルギーがいるのだ。

この「断捨離名人」の姉妹は、素晴らしいアドバイスをくださった。

「一番大事なものから捨てるの」

────一理も二理も三理もあった。

「一番大事」だというのは、「思い込み」に過ぎない。

偶像だ。

逆に、自分がそれに捕われ、支配されてるような気もする。

なくなったとしても、何ら支障はない。

例え支障があるにせよ、何とかなる。何とかできる。何とでもなる。

何とかしよう…!というパワーが沸くのも素晴らしいことだ。

過去というのは、そこに、思い入れやら思い込み、しがらみ…

色んなものが付着して、重みを増す。

だから、捨てられない。

過去にとらわれると、身動きできなくなる。

「もったいない」とか、意味や理由…を考え出すと、断ち切れなくなる。

「もったいない」と後生大事にとっておいて、それで身動きできないとしたら、その方がよほど、もったいないだろう。

よって、

サクサクと事務的にまとめて、本や雑誌をゴミに出した。

とても自由になった、開放感があった。聖書にもある。

 「必要なものはわずかです。いいえ、ひとつだけです」

(ルカの福音書10‐42)

(そのうち見よう、また見よう、何かの参考になるかもしれない…)とたまりにたまった録画も削除せねば!

録画してあるから、逆に「見ない」のだと気がついた。