「コスモスの花のように」(3)

「わたしのしていることは今あなたにはわからないが、あとでわかるようになります」

ヨハネによる福音書13‐7)

人は目先のことしか見ないから、ちょっとしたことに右往左往する。「災い転じて福となる」ことはいくらもあるし、長い目で見れば、何が福で災いなのかわからないことは、おそらく多い。

それでも…礼拝に集う兄弟姉妹を見ていると、本当に、
どうしてですか?

と主に問いたくなることが多い。

88歳の姉妹がおられる。一人暮らしで自宅で数学の家庭教師をされている。88歳で受験生を高校や大学に合格させているのである。携帯は使われず、親しい人の電話番号はみんな暗誦できるらしい。その姉妹が自宅で転倒し、腕を骨折された。それを医者にかからず、勿論、手術もなさらず、自然治癒で治された。骨が折れているのだから、当然、痛い。姉妹は他にも、リュウマチが持病で、このリュウマチというのは治すことができず、とにかく痛いらしい。その痛みのなかで、姉妹は、
エス様は十字架の上でもっともっと痛い目に遭われたのだ
と感謝されたと聞いた時には、私とは頭の構造が違うのかと思った。また、生まれついての難病で、十代で片足の足首から下を切断した息子の両親が、おられる。息子は障碍者枠で就職し社会人として働いているが、今も足の痛みに苦しみ、手術を繰り返している。――――わが子の苦しみは、親にとっては自分の苦しみ以上だろう。ましてや、先天性の病で心身ともに苦しまねばならないわが子の姿を見ながら、
どうしてイエス様信じていられるんですか?
と聞きたくなる。
またしても、前置きが長くなったが、この「コスモスの花のように」――――愛する夫、愛する十代の3人の子どもたち…と幸せに暮らしながら、いきなり、「余命三ヶ月」を宣告された智恵美姉妹…。それを平安のうちに「主からの恵み」と受け取り、どんな痛みや絶望のなかにあっても、揺らぐことはなかった。。それはもう、私には理解できない。おそらく、夫である高原兄弟にも、理解はできなかったのではなかろうか?主が智恵美姉妹に働いてくださり、語ってくださり、慰め、励まし、哀れんでくださった…
そうして、
智恵美姉妹を通して、主のご栄光を現わしてくださったそれによって、高原兄弟も、三人の子ども達も、イエス様を見上げ、智恵美姉妹を見送ることができた。そこまでは、余命宣告から三ヵ月のことだから、何となくわかる。
智恵美姉妹はこの世の苦しみから解放されて、今は天国なのである。
しかし…残された家族にとって、先は長い。
今まで、伝道旅行に出発する前、智恵美姉妹がマンションの窓からずっと手を振って、見送ってくれた。帰って来る時には、どんなに遅くとも、駅の改札で出迎えに来てくれた。
そして…片腕をもぎとられたように、高原兄弟は一人で、三人の子ども達を育てなければならない。
本の終盤、智恵美姉妹が亡くなってから、高原兄弟はメソメソと妻のいなくなった寂しさ、どうしようもない辛さ、哀しみ…を語る。正直に語る。
何故、智恵美だったのだろうか、何故、私たち家族だったのだろうか…?
例え、このことを通して、自分自身(=高原兄弟)が変えられるとしても、他の方法はなかったのだろうか?
神が万能であることも、間違いがないことも、天国が素晴らしいところであることも…寸分の疑いもなく信じている。それなのに…
(妻が天国へ行ったことに)感謝できずに、苛立っている
よく、ここまで本音を書いた…と、私はこの辺りで感動してしまった。「年の瀬、一家の主婦のいないわが家の空間に私はどうしても慣れることができません」
本のラスト、著者は開き直るように現状を吐露する。
(開き直りのような)主が何とかしてくださる…というラストである。
そして…
主は何とかしてくださったのである。
高原兄弟は、主にある姉妹と再婚し、伝道活動に励んでいる。(子ども達も再婚に賛成した)
高原剛一郎兄弟のブログ→http://blog.livedoor.jp/gt516/