「がん」という冒険(45)

手術前夜、祈りに包まれて眠る幸せを感じた私には、

手術に対する恐れなどない。

と読者は思われるかもしれない。抗がん剤治療の苦しみもなかったのだから、術後の痛みも大したことないだろう…くらいにしか感じていないだろう…と。

そんなことはないのである。

私は知っている。

エス様は侮(あなど)られるようなお方ではない。

容赦のないお方である。

これは、自分が容赦のない目に何度もあったから言えることであるし、主にある兄弟姉妹を見ても感じることである。

ただ、その時には耐え難い、拷問のような苦しみであっても、過ぎ去った後にそれが深い傷跡として残ることはなかった。

苦しみにあったことは、私にとって幸せでした。

私はそれであなたの掟(おきて)を学びました。

詩篇 119・71

キリスト教はご利益信仰ではないといわれる由縁だろう。

 

入浴中に胸のしこりに気づいたのが去年の2月だから、もう1年以上になる。それから今まで、「がんでありませんように」「重いがんでありませんように」「転移していませんように」…と祈ったことはない。ただひたすら、

「どのようなことも、すべて主の御手から受け取ることができますように」

「主の前に、ぶれることなく、しっかり立つことができますように」

「がんを通して、主のご愛を味わうことができますように」

エス様を知らない人にはピンとこないかもしれないが、こんなふうに祈った。そして、この祈りはすべて、おつりが来るくらい見事に聞かれた。(祈りが実現した)

そんなわけで、手術である。

なるべく痛みから守られますように。

とは祈らない。手術して痛いのはあたりまえだし、耐えるしかない。心の準備(覚悟)はした。それは、

・肉体の痛みは一時のことで、時間とともに楽になるが、精神の痛み(悩み)は時間に関係なく、一生つきまとわれることもある。(肉体的痛み<精神的痛み)

・多くの母親が経験する出産の痛み。友人の声を思い返しても、「断末魔の悲鳴をあげた」「鼻からスイカ(が出てくる)」「『これは死ぬ時より苦しい』と思った」…と壮絶だった。(ちなみに、どれも『難産』ではない)私も二児の母であるが、双子のため帝王切開だったから、分娩の痛みを知らない。術後の痛みをお産の痛みと引き換えにするのも妙な話だが、覚悟をしたわけである。

乳がんの術後が痛いとしても断末魔の叫びをあげながら、のたうち回ることはあるまい。(痛み止めを処方してもらえるだろう)

親しい姉妹が「病院食が美味しかった~」と言う。「入院中はイエス様がいつもより近くに居てくださるよ」。彼女は3年前に肺がんの手術で片肺の3分の1を切除した。病院食が美味しかったのは主の祝福かと思うが、術後の痛みは想像を絶したらしい( ;∀;)

一方で、祈り会の姉妹でステージ3の大腸がん手術で「お腹の下5㎝切った」が、かゆいくらいだった、という人もいた。

その辺のところ、担当医に尋ねたこともあるが、

個人差で、人の経験談は良くも悪くも参考にならない。

ということだった。そうして、

「★(私の本名)さんだったら、大丈夫そう」

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コロナ禍で手術時の立ち会い人のいない私は、看護師の案内で一人、手術室に向かい手術台に横たわった。よしみドクターに、

「がんばりましょう」

と言われ、

「がんばりようがないんですが(笑)」

「(笑)がんばります」

麻酔で眠り、目が覚めた時には手術は終わっている、と説明されるが俄(にわ)かには信じられない。しかし、意識が薄らいでいくという自覚もなく、

手術台で目覚めた時には手術は終わっていた。

時間を聞くと、11時40分。「2時間少し」という予定通りである。開いてみて切除部分が多ければ手術時間は長くなる、と聞いていたから、想定外のことはなかったようで安堵した。

胸の痛みは…それほどでもない。今は麻酔が効いているから、そのうちひどくなるのだろう。そうなれば、また痛み止めで対処してくれるらしい。

ともかくも…終わった。