「コスモスの花のように」(1)

キリスト教はご利益信仰ではない、と言われる。
つまり、イエス・キリストを信じたところで、幸運は巡って来ない、幸せにはなれないということである。
わかりやすくいえば、星占いやタロット、風水や運勢など…当たれば本当に「幸運」が舞い込むから、こちらを信じた方が、この世で幸せを掴むことはできるかもしれない。

では、イエス・キリストを信じれば、不幸になるのか?
残念ながら、半分、YESではないかと思う。
そもそも…神と出会うことからして、恵まれていたのでは「神」とは出会えない。努力すれば何とかなる、という次元では、人は神を求めないのである。
(神社で手を合わせたり、お守りもつのは、ただのおまじない(気休め)だと私は思う)
大病を負う、愛する人と死別する、職を失う…奈落の底に落ちる…
教会のドアを叩く人の心情を想像してもらいたい。そうして、神から与えられるものは、魂の救いや平安、恵み…
目には見えないものである。
私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。
見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。
(コリント人への手紙?4‐18)

例えば、占いで実現するような幸運…金持ちになったり、仕事で成功したり、恋愛が成就したり…
実現した喜びは、いつまでも続かない。
「目に見える」幸せは、一時しのぎなのである。
しかし、いったん、神を求め、神を信じたところで、その信仰が持続するのは難しい。
喉元過ぎれば熱さ忘れる。神によって急場をしのぐと、また神を必要としなくなり、神を見なくなるのである。
「目に見える」ものにとらわれるようになる。
だからなのか…
信仰に入ったクリスチャンは、聖書に言う「試練」を与えられる。「試練」によって忍耐を覚え、清められていくのである。
試練にも、ピンからキリまである。
クリスチャン業界的にいうと、
信仰の深い人ほど「試練」も重い。
という法則があるそうな…。
例えば、一昨年亡くなった私の集う教会のドイツ人宣教師は、
6人の子供のうち3人を喪い、晩年は、糖尿病、白血病、皮膚がん…を背負いながら、布教活動に専念された。
いつも笑っておられた。
「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい」
(テサロニケ5‐16〜18)
見方を変えれば、感謝できないようなことににも、感謝できるのである。
例えば、死を宣告されるような病にあっても、それによって、今まで見えなかった世界が見えて来る、ということもある。イエス・キリストにあっては、
すべてのことについて感謝できるのである。
(私には無理だけど…。)
そうして、この「コスモスの花のように」は、40代で最愛の妻を喪ったキリスト者の証し(主イエスがいかに、素晴らしいかを告白する)の書籍である。
最愛の妻が、いきなり「余命二ヶ月」のガン宣告…。十代の子どもが三人…。
これで、どうやって、
イエス・キリストに感謝
できんねん!?
であるが…。