主のご栄光(5)

私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。
見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。(コリント人への手紙Ⅱ)
このみことばを読んで、父が、「そう思う」
と言った時は小躍りしたい心情だった。
世の中金。
金持ちがえらい。(力ある)
口では何でも言える。出すもん出してみぃ。
な父であった。
死を前にすると、金というものは効力を失くすのだろう。
身体の自由を奪われた父は、金の無力さを知ったのではないか、と思っていた。
「見えるもの」とは金で手に入るものだと思う。
そして、「見えるもの」は本当に一時的なのである。
「見えないもの」…例えば聖書のみことばを、父は「しみる」と言った。
星野富弘の本に、「神様ありがとう」というフレーズがあり、父も、
「そう思う」
と言うので、「お父さん、『神様ありがとう』て思うの?」と思わず聞き返した。
「思う」
はっきりと返答し、これは、記録に残さねば、とICレコーダーに録音までした。エス様すごい。
である。
日がな一日、施設の個室で過ごす父は、余計なものから遮断されず(気をまぎらわせるものがない)、神と直に向き合っているのかもしれない。と思った。
不満も言わず穏やかなのである。
それなのに…。
大阪の不動産見た途端、
「本物の金持ちは表に出ない」
とは、山崎豊子の「華麗なる一族」だったかに出ていた「鎌倉の老人」みたいである。
しかし、まぁ、それで抜け殻のようだった父に活気が戻ったのは娘として安堵したことではあったが…。これ何ですか?イエス様…
死線をさ迷い、
神様、助けてください!と叫んだかと思えば、元気になってみると、知らん顔。
というのは、よく聞く話で、父も例外ではなかったらしい。
つくづく…人間というのはどうしようもない。救いようがない。
そんなどうしようもない人間だから、
エス様は十字架刑を受け、人間の罪の代償になってくださったのかと思う。大阪の不動産を見て自信取り戻したとしても、
不動産はあの世へもって行かれへんで。
でもまぁ、そんな父のことを、イエス様は百も千もご承知である。兄弟で話し合い、これから父を月に一度くらい、レンタカーを借りて大阪へ外出させようということになった。
リハビリである。
これも、イエス様のご計画なのだろう。
「草は枯れ、花はしぼむ。だが、私たちの神のことばは永遠に立つ」
イザヤ書40−4)