主のご栄光(3)

見舞った父は、ますます弱められていた。五月の連休に見舞った時も、父からはしゃべる気力もないようで、顔を見合わせたままの「お見合い」のようだったから、覚悟はしていた。
痛みからは守られ、つらそうな様子もなく、文句も言わないらしい。
それは感謝だと思う。
裏を返せば、痛い、苦しい、つらい、不機嫌、我儘…だって十分、あり得る。
というより、頭はしっかりしているので、これは奇跡に近いのではないか。
自分以外の人間を信じない、一匹狼、叩き上げで成金になった父。それでも奢ることなく、家庭に問題を持ち込むこともなく、金の苦労を知らずに子供らは育った。
80歳で現役、正月に「フォアグラとバイアグラを間違えた父を、今では誇りに思う。
そんな父が81歳、クモ膜下出血でいきなり倒れた。
あれから3年。
「父がイエス様と出会えますように」
と祈っていて、あの(金と自分以外信じない)父がどうやってイエス様に出会うねん。
自問していた。そうしたら…突然、予告もなく倒れたのである。
健康には十分、注意していた。
一番驚いたのは父自身ではなかったかと思う。
3年の間、父は色んなところを通されて、聖書にある砕かれた。
倒れる前には、
イエス・キリストの教え、お父さん、好きやでぇ」
と言いながら、
「頭のええ人の作戦には乗りたくない」
と言った。そんな父が、身体の自由が利かなくなり、リハビリの気力もなく、ただ「死」を待つだけとなり、
聖書を一緒に読めるようになった。
聖書の言葉が「しみる」と言った。
聖書を読みながら、イエス様が十字架につけられるところで「可哀想や」と涙した。
星野富弘さんの本を一緒に読みながら、共感した。(「お父さんの気持ちと同じや」
…そんなわけで、父は「救われた(イエス様を救い主と信じた)」と半ば思っていたのであるが…。
救われてるなら、もう少し、喜びや平安があってもいいのでは…父はもう、不満や欲求を叫ぶ気力もない、「抜け殻」のようだった。「噛み砕く力がない」
と、食事も食材の原型とどめぬ半流動食、お茶にまでとろみがつけられていた。(「むせる」ため)(イエス様に)それはないでしょう〜!
私は叫んだ。
ただでさえ、食べ物にはうるさかった父。食べたい物を弟にリクエストしていた時期もあったが、そんな欲望(気力)もなくなり…施設の食事を仕方なく食べていた。
見た目や香り…が食欲をそそる。
いくら美味しくても、見た目がダメでは箸を取る気にもならない。「美味しそう」
は重大だ。
ただでさえ、美味しくもない施設の食事を「半流動食」で食べさせられるのは…
拷問やんけ。
である。
私の見た限りでは、父は「噛み砕く力がない」というより、「噛み砕こうとする気力がない」
そうして、食欲の湧かない食事を出されていたら、食欲は湧かないまま…食する能力も衰えて…やがて「流動食」
これだけは、何とかしたいと思う。