「祈りのちから」(2)

一見恵まれて、幸せそうに見えても内実はわからない。この映画の主人公、エリザベスの家庭も世間的には恵まれていたが、内実は崩壊寸前。
夫婦の関係は完全に冷め切っていた。
それが、エリザベスの「祈り」によって変えられていく。
クララから教えられた主イエスへの「祈り」によって、エリザベスが変えられ、家族も変えられる。

優秀な医薬品セールスマンだった夫、トニーは不正がばれて会社を解雇される。
エリザベスがトニーを責めることなく、祈りながら家計を支えるために働く。
そこへ奇跡が起きる。エリザベスが、トニーが、娘のダニエルが…現実的には苦境に見舞われながらも、開放されたように自由になっていく。

出世
名誉
それらは人を傲慢にし、決して人を「幸せ」にはしないことを見せられる。
戦いや争いに勝利したところで、それでは終わらない。また新たな戦いが始まり、新たな苦しみが始まる。
そういうことを思えば、この聖書のみことばは真理ではなかろうか?「『目には目を、歯には歯を』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなた方に言います。悪人に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をもあたえなさい」
(マタイの福音書5章38節)「祈りのちから」を経験したエリザベスにクララは言う。私は「正しい戦い方」を教えただけと。
確かに、自分の右の頬を打つ者に左の頬を向ける、というのは、自分との戦いだろう。しかし、左の頬を向けて、相手は打つだろうか?打ったとして、更に攻撃を加えるだろうか?
諸々考えるに、これ以上の「正しい(賢い)戦い方」があるだろうか?
「何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です。私たちの願う事を神が聞いてくださると知れば、神に願ったその事は、すでにかなえられたと知るのです」ヨハネの手紙第一 5章14-15節)
これを体得したクララ。クララはエリザベスに言う。「あなたは昔の私にそっくりだった」
だから放っておけなかった。
「あなたは、祈るときには自分の奥まった部屋に入りなさい。そして、戸をしめて、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れた所でみておられるあなたの父が、あなたに報いてくださります」
(マタイの福音書6章6節)
「祈ってすんだら苦労せんわ」
みたいなことを思われる方は少なくないだろう。しかし、このみことばにあるように、
「自分の奥まった部屋に入りなさい」
それは、外界をシャッタアウトすることで、
「戸をしめて、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい」
目には見えないけれど、天地万物を創造した「父」を畏(おそ)れ敬い、すがるのである。
やろうとしたところで、やれるものではない。まずは、
自分の力ではどうにもならない。何もできない。
と、自分に絶望し、砕かれなければならない。
そして、
神なる者に、すがる(ひれ伏す)のである。
他の偶像(人のアドバイスや占いとか)があってはならない。
ここまで追い込まれなければ、人は祈れないのかもしれない。
パンフレットによると、この映画はアレックス・ケンドリック(製作・監督・脚本・出演)と、スティーブン・ケンドリック(製作・脚本)による牧師兄弟によってつくられた。「祈りの力」以前に4作品がつくられ、「映画のテーマ」「タイトル」「キャスティング」「ロケーション」…何を行うにしても、祈り、祈り、祈り…。

5作目にあたる「祈りのちから」は、300万ドル(約3億円)という低予算で製作され限定的に公開が始まったが、2015年8月の公開終末に興収第2位を記録して、公開前には、この映画を黙殺していたマスコミを大いに賑わせる結果となった。以降、一気に上映劇場を増やし、全米1位に躍り出る。7000万ドル(約74億円)い迫る収益を上げる大ヒット作品となった。
また、キャスト全員がクリスチャン。主役のエリザベスを演じたプリシラ・シャイラーは、聖書を掘り下げて教えることで世界中に知られる著述家。女優未体験だというのだから驚くしかない。