死の問題の解決(2)

「豊かな老後」という言葉があった。
それは、縁側でおじいさんとおばあさんがお茶を飲みながら、日向ぼっこしているような光景がイメージ映像としてあった。猫が傍らで寝ているような。
人生の現役を走り終えて、あくせくした追われるような毎日から解放され、ゆったりと人生を振り返るような「円熟」のイメージだろうか?
明るい日と書いて「明日」、未来というものには何となく希望のもてる明るさがあったそんな時代だったこともあるかもしれない。しかし…今、思う。
「豊かな老後」
どこにあるねん???
まるで「絵に描いた餅」
「幸せな結婚」より、ひどい。
時代は関係ない。
年を取るということは、
身体が弱り、従って精神も弱る。
昨日出来なかったことが今日出来るのが「成長」だとすれば、「老い」とは、昨日出来たことが今日は出来ないかもしれないということだ。例え、身体が元気でも、周囲の人間は衰え、弱り、死んでいく。今は、「元気」かもしれないが、先は全くわからない。
「70過ぎたら、いつどうなるかわかりませんよ」
というのは、桂先生(87歳)の言葉だ。
実感だろう。年賀状を出したら返事が来なくて、当の本人が亡くなっていた…とか。「死んだらおしまい」と言う。
確かに、人生の終着点は「死」だ。
でも、生まれて来た以上、どんなにしても「死」を免れることは出来ない。本当に「死んだらおしまい」なのだろうか?「死んだらおしまい」だとしたら、人生の意味は何なのか???これは、私が十代の頃から抱いていた大疑問であった。今から思えば、あんなことで悩まずに、もっと若さを謳歌して人生を楽しみたかった。
でも、楽しめなかったのだから仕方ない。お金も時間も自由もあったのに…虚しかった。生まれて来た意味がわからずに、「生まれてしまった」から、「仕方なく」生きていた。
私は、「死の問題の解決」をしたかったのだと思う。人生の終着点は「死」であることは明確なのに、「死の問題の解決」がつかずに、どうして平和に暮らせるのか?人生を楽しめるのか…?
一人一人に聞いて回りたい心境だった。
発狂しそうだった。
大学のカウンセリングルームに飛び込んだ私は、カウンセラー(医師)に、
「私の頭、ぶっ壊れてるんです」
と言った。
その発言はカウンセラーを大層、面白がらせたようで、その後の長きに渡る付き合いが始まった。
が、私の「死の問題の解決」問題についての答えとしては、「俺くらいの年(五十代)で考えるようなことで、(若いおまえが)悩んでる」
当時の私は、それをどう受け取ったのか…?今になって思えば、「それがカウンセラーの答えかよ〜!何の足しにもならへんやんけ!」
である。