死の問題の解決(1)

もう20年ほど前のことだ。どうして鮮明に記憶に残り、また、しばしば思い出すのかわからない。
駅前で見かけた光景だ。70年配のおばあさんが手押し車を引きながら駅前を歩いていた。
本屋の前を通った時、(私は本屋にいたのだろう)知り合いに会ったのか、おばあさんはこう言った。「オムツして、こうなったら、もうおしまい」
私は結婚したばかりで生活が一転したにもかかわらず、そこだけが切り取られたように記憶に刻まれている。特徴のあるおばあさんではなかった。
ただ、「オムツして、こうなったら、もうおしまい」という台詞が妙にリアルで、何とも言えない悲哀を感じたのかもしれない。3年前、父がくも膜下出血で突然、倒れ、寝たきりから車椅子に搭乗…の時も、
「お母さん、座ってテレビなんか見たことないわ!」が口癖だった母が、一日の大半を布団の中で過ごすようになった時も、
このおばあさんのことを思い出した。
しかし、それまでとは受け取り方が違った。オムツをして手押し車を漕ぐおばあさんは、全然「おしまい」ではなかった。オムツをして手押し車で駅前を歩けるおばあさんは、知り合いに会って「オムツして、こうなったら、もうおしまい」などと軽口を叩けるおばあさんは、(幸せかどうかはわからないが)全然、おしまいではない。
あのおばあさんも、あのまま生き続けていれば、あれが「おしまい」ではないことに、気づかされたことだろう。「老い」の恐ろしさというのは…「若返る」ということがないことだ。
「回復」することはあるにせよ、一様に「老い」へと向かう。弱り衰え…死を迎える。
老いというのは、何とも無情である。
「老人」とは、「老いる」「人」と書く。70代だった父が、電話でこんなことを言った。
「老人になんのは初めてやからなぁ」
まだ現役で仕事をしていたが、自分の身体の変化、周囲(弱る人、亡くなる人…)の変化…色々なことがそれまでと変わって来たのだろう。
急速に。
「老いた」両親のことで、先週、実家に帰っていた。
生きている限り、誰もが迎える「老い」。
「老い」の延長線上にある「死」…。
死の問題の解決」について、改めて考えた。