主のご栄光(2)

「信じる」とは、どういうことだろう、と思うことがある。私は「安心」なことより「不安」なことの方が遥かに多い。
いつも精神的に余裕がない。エス様、イエス様…と毎日祈り、イエス様を信じているはずなのに、
信じているのに不安なのは、余裕がないのは、結局、信じていないのではないのか?
とよく自問する。
おそらく、神を疑いなく「信じきる」「信頼する」ことは、とてつもなく大変なことなのではないか、と自分を慰める。
不安だから、祈る。祈ることで平安になる。そんな思いがいつもぐるぐると回っている。
老いて衰えた両親のことも、毎日祈っている。死の恐怖から守られ、天国への確信が与えられますように…。
と祈っているのに、不安で、お盆の帰省も気が重かった。
ただ、気休めに祈ってるだけのような。
ただ、苦しまぎれに命綱にしがみついてるだけのような。
自分でも嫌になる。不信仰の極みではないか?
何だかんだと帰省前はいつもこう。そうして、思いもかけない恵みをいただき、ご栄光を現され、感謝して家路に着くのだが…。
時間とともにリセットされて、再び不安になり気が重くなる。一方で、こうして不安になり気が重くなるのも、肉親だからなのか、とも思う。「お父さんとお母さんの子どもでよかった」
とは思わないけれど、苦しんでほしくない。
多少ぼけた方が、本人にとっては楽だろう、とさえ思う。
理屈ではない。情と言えば情だろう。残りの人生を、希望をもって平安のうちに過ごしてほしい。それには、イエス様しかないのだと思う。おそらく私は、イエス様を「信じる」より「信じたい」なのだろう。
「信じる」より術がないのだ。
そんな心情で施設の父を見舞った。