真理とは…(2)

前回ブログに書いた、礼拝所の階段から落ちて救急車で運ばれたK姉妹(70代)は、
今週の礼拝にもいらっしゃった。
骨折などもなく入院もせず、そのまま自宅に帰られたらしい。
救急車で運ばれた時は、(ご主人が亡くなって)久しぶりに礼拝に来て、階段から落ちて救急車で運ばれるなんて…どういうことなんだろう(お参りに来た帰りに事故に遭うみたいな)と思った私だったが、F姉妹が、ここで階段から落ちたから、救急車を呼んでもらえた(K姉妹は一人暮らし)
と言われて、感心得心した。
救急車には別の姉妹が同乗してくださり、礼拝の中で起きたことだから皆が心配してくれる。(祈ってもらえる)また礼拝に行きやすい。
…なんとまぁ、K姉妹はこれ以上ない最善の場所で階段から落ちた、ということになる。
それで、骨折も入院もなかったのだから。
K姉妹は主のご愛を体験し、感謝されてるのではないだろうか。
星野富弘の自伝「愛、深き淵より。」(立風書房)に、車椅子に乗った時の記述がある。売店に買い物に行った母がうれしそうな顔をして帰ってきた。医局の前に新しい車椅子がきていて、先生方がみていたと言うのである。普通の車椅子と違って首のささえがついていたから、もしかすると私の車椅子が来たのかもしれないと言った」
星野さんは、ほとんど体を起こさずに4年間も寝ていたため、膝はほとんど曲がらず、首も体を起こして自分の力で支える力がなかった。高いお金を出して車椅子を買っても、果たして乗れるようになるのか…?そんな時、婦長が、「あなたに合う車椅子を先生がたが探していてくださっていますから楽しみにしていなさいよ」と言ってくれた。
私は体の血の量が倍ぐらいふえたのではないかと思えるほど、うれしさで体がほてるような感じがした。とある。
ベッドの上でほとんど体を動かさず4年も過ごした身にすれば、車椅子に乗って好きな所へ行けるというのは、夢のようなことだろう。はたしてその車椅子は私のためのものだった。この時の星野さんの感動…は、察するにあまりある。
車椅子は外国製で首のささえといい足をのせる所といい、私のために作ったのではないかと思えるほど申し分ないものであった。母の押す車椅子にのって廊下に出ると、みんなが私に注目しているような気がした。私はうれしくて、会う人、会う人、みんなに声をかけたかった。「こんにちわあ、オレ車椅子に乗れるようになったんです。あのう、すみません、ちょっとこの車椅子みてください。きょう初めて乗ったんです。これ外車なんですよ」私と母は大廊下を何回もいったりきたりした。外来の人混みの中にも入っていった。入院して四年、こんなうれしい気分になったのは初めてだった。素晴らしい…。
私は2年前、くも膜下出血で倒れ、7時間に及ぶ緊急手術を経てベッドに寝たきりの父が、ようやくのこと車椅子に乗った時の感動を思い出した。私は自分の足で歩いている時、車椅子のひとを見て気の毒にと思った。みてはいけないものをみてしまったような気持ちになったこともあった。私はなんと、ひとりよがりな高慢な気持ちを持っていたのだろう。
車椅子に乗れたことが、外に出られたことが、こんなにもこんなにもうれしいというのに。初めて自転車に乗れた時のような。スキーをはいて初めて曲がれた時のような。初めて泳げた時のような、女の子から初めて手紙をもらった時のような…。
でも今、廊下を歩きながら私を横目でみていった人は、私の心がゴムまりのようにはずんでいるのをたぶん知らないだろう。
確かに…
幸せってなんだろう。
喜びってなんだろう。ほんの少しだけれどわかったような気がした。
それはどんな境遇の中にも、どんな悲惨な状態の中にもあるということが。
病気やけがは、本来、幸、不幸の性格はもっていないのではないだろうか。病気やけがに、不幸という性格をもたせてしまうのは、人の先入観や生きる姿勢のあり方ではないだうか。
真理だと思う。