「聖パウロの回心」

クリスチャンの間では、「導き」という言葉が多用されます。
自分の意志とは別のところで、何かに導かれるように物事が展開するということです。
多かれ少なかれ、誰しも経験していると思います。
ただ、クリスチャンの場合、導くのは主であるイエス・キリストです。
なので、悪い意味で「導き」は使われません。
導きは、平安や喜びへと繋がっていきます。
日本の伝統芸能である能。
能に詳しいわけでは全然ないのに、詳しいどころではないのに、何故か、能のエッセーを書く仕事をいただいていて、
3月号に「吉利支丹(きりしたん)能の復活」というエッセーを書きました。
3月11日、渋谷区松濤にある観世能楽堂で、観世流26代宗家、観世清河寿(かんぜきよかず)が聖書に題材を取った吉利支丹能、『聖パウロの回心』を舞うのですね。
そのことをエッセーにしたのです。
はい。
『聖パウロの回心』とは何か?
教養豊かなブログ読者様には、説明の必要もないと思いますが…。
嘗(かつ)て、田園調布の教会に通い、英語の聖書を読まれていた尊敬する桂千穂氏でさえ、(私のエッセーを読んで)
パウロはキリストの弟子じゃなかったんですか?」
パウロがこういう人だったとは、初めて知りました」
…と言われたので、未信者の方々は、そのような認識なのだと了解しました。
で、3分で『パウロの回心』を説明すると、
パウロというのは熱心なユダヤ教徒で、キリスト教徒を迫害していたのですね。
この日も、キリスト教徒を殺害するべく、ダマスコへ向かっているところへ、
「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか」
という声を聞きます。
「主よ、あなたはどなたですか?」
「わたしは、あなたが迫害しているイエスである」
サウロというのはパウロユダヤ名です。この時、イエスは既に処刑されていて、パウロは死んだはずのイエスに、
「なぜわたしを迫害するのか」
と問われます。そして、突然、パウロは失明します。
これを機に、パウロはイエスを迫害する者から、イエスを信じ、その名を広める者へと変えられるのですね。
これが、世界的な芸術にも多く取り上げられている『聖パウロの回心』です。
ちなみに、失明したパウロですが、再び、イエスの弟子によって、見えるようになります。
で、何が「導き」かというと、能のエッセーの仕事で、聖書の御言葉を引用し、イエス様を紹介できたことが信じられない導きでした。
そして…。
聖書を引用したりしたので、同じ教会に通う姉妹(=女性信者)に、誤ったことを書いていないかチェックしていただきました。
すると…その姉妹が、
「吉利支丹能」の存在に興奮して…
「3月11日の公演、行かない?」
と誘ってくださったのでした。
ああ…。
こんな「吉利支丹能の復活」などと偉そうなこと書いてる私ですが、
実は…本公演を観に行くのには迷いがあったのですね。
だって…
最低料金(B席)8000円だし…
でも、姉妹の誘いに主の「導き」を感じて行くことにして、
A席10000円を予約しました。
ちなみに、SS席15000円、S席12500円です。
そして、3月11日の公演、思いもかけない祝福をいただきました。

    
       つづく