見つかる(1)

昔から、ふと、不思議に思うことがあった。

例えば、鍵や財布、携帯など、毎日使う必需品が見当たらない。

紛失した場合、ものすごく、慌てる。

悪用されたら……ということまで考える。

いや~な気分になる。

もう、そのことに支配され他のことに手がつかなくてウンザリなことも……。

そして……見つかった時、本当にほっ、とするし、嬉しい。

胸撫で下ろす。

よかった……ラッキー!

だけれど、紛失しないことに対して、感謝することもないし、ラッキーとも思わない。

ならば……大事なものを「紛失」することもまんざら、悪いことでないかもしれない。

ただこれは、「見つかる」ことを前提としての話だけれど。

今の私の場合、普段から身につけるもので「これを失くしたら致命的」と思えるものが二つ。

・財布

スマホ

財布は愛着のあるブランドでカード類が収まっているので、入っている現金に関係なく、見当たらなくなった時点で、パニックになるだろう。

スマホは仕事先との連絡がつかなくなり、(対応の仕方はあるだろうが)どんより気分になるのは目に見えている。

例え、見つかったにせよ、この「パニック」「どんより」は想像しただけで気分が悪くなる。

そんなわけで、この財布とスマホについては、常に存在を確認している。

(携帯を紛失したことは数度ある)

で、今回、失くしたのは、

カードケース

である。とはいえ、銀行などの主要なカードは入っていない。

一番、いたかったのはビックカメラのカードで、引っ越しの際に冷蔵庫や洗濯機、照明などを購入して、結構ポイントがたまっていたのである。

失くしたといっても、そのうち出てくるだろうと思っていたのだが、心あたりを探しても見つからない。

ビックカメラで買い物しようとしていたのだが、カードがないことには買い物に行く気もしない。

スマホを失くす『どんより』に比べれば、『うすどんより』ではあるが、徐々にダメージがたまってくる。

そして、祈る。

キリスト者は、イエス・キリストに祈るのである。

ダメージがたまるに従い、その祈りも真剣になる。