ブラックパワー・サリュート(2)

ブラックパワー・サリュート(black power salute)salute=敬礼1968年メキシコオリンピック、男子200メートル走で見事、銀メダルを勝ち取ったノーマン。母国オーストラリアでは全く期待されていなかったのだから、これは快挙である。金メダルのスミス、銅メダルのカーロス、2人の黒人とともに表彰台に立つノーマンにコーチは、2人が何をしても無視するようにと釘を刺した。もはやノーマンはオーストラリアの英雄、その将来は約束されていた。
しかし…。
表彰式を前に、スミスとカーロスは「ブラックパワー・サリュートをやる」とノーマンに打ち明ける。オリンピックの理念としては、全てのエリアにおいて、いかなる種類のデモンストレーションも、いかなる種類の政治的、宗教的、人種的な宣伝活動も認められていない。 もし実行した場合、オリンピックから永久追放されるだけでなく、他のいかなる大会に出ることも許されず、選手生命が絶たれてしまう。 それでも2人は、同胞たちの苦しみを世界に訴えるため「ブラックパワー・サリュートをやる」決意をした。
打ち明けられたノーマンは、2人の胸のバッジ(人権を求めるオリンピック・プロジェクト(略称OPHR)のバッジ)を指差して、自分の分もあるか、と尋ねた。
「そうすれば僕も人権運動を支持していることが証明できる」余分なバッジがなかったため、ノーマンは他のアメリカ人選手から借りたバッジを胸につけた。
また、カーロスは当初身につける予定だった自分の黒手袋を忘れたが、ノーマンがスミスの手袋を2人で分かち合うよう提案し、スミスが右の手袋を、カーロスが左の手袋をつけることになった。スミスとカーロスは24歳と23歳、ノーマン26歳。
アメリカ国歌が演奏され、星条旗掲揚されている間中、スミスとカーロスは、目線を下に外し、頭を垂れ、高々と握り拳を突き上げた。会場の観客からはブーイングが巻き起こり、この時の様子は世界中のニュースで取り上げられた。
この1枚の写真は「ブラックパワー・サリュートと呼ばれ、黒人の誇りと威厳を主張し、差別に抗議する意志の象徴として、世界中に配信され、大きな注目を浴びることになった。スミスとカーロスは閉会式に出ることも許されず、翌日、アメリカに強制帰国させられる。
オーストラリアではピーターの史上初の快挙が大々的に報じられ、マスコミと国民は熱狂したものの2週間の開催期間を終え、帰国の途についた彼を出迎えたのは…母と妻、そして友人がわずかに数名のみ。
ノーマンが表彰式で、黒人2人が行なったパフォーマンスに賛同の意志を示した事実が報道されると…賞賛は一変。
オーストラリアは白人社会。少数民族の人権の尊重どころか隔離・迫害を行っていた。ピーター・ノーマンの行為は国策を否定する許されざる行為として、マスコミからこぞって叩かれる
自宅に何通もの脅迫状が届くようになり、嫌がらせが一段落すると待っていたのは…徹底した無視。 マスコミや国民のみならず、隣人ですら彼の偉業をまるでなかったことのように扱った。
ノーマンは妻とも上手くいかなくなり…離婚。 職を転々とする。
そんな彼を唯一支えるもの、それは…走ること。 ジョンとトミーは永久にオリンピックから追放されたがノーマンにはまだ、オリンピック出場の権利が残されていた。メキシコオリンピックから4年後のミュンヘンオリンピック、30歳になっていたノーマンは4年間でオリンピック派遣の標準記録を13回突破する。彼のオリンピック出場は確実に思えたのだが…オーストラリアは、ミュンヘンオリンピックの陸上男子200Mに自国の選手を派遣しないと発表した。この仕打ちは、ノーマンに陸上界からの引退を決意させるのに十分だった。
銀メダリスト、ピーター・ノーマンの名は、やがてオーストラリアの国民から完全に忘れ去られてしまう。
アメリカのジョンとトミーは、メキシコオリンピックから帰国後、ともに勤め先から解雇され貧困に苦しむ生活。 さらに家族への差別・脅迫も相次ぎ、ジョンの妻が自殺する悲劇まで起こってしまった。 それでも、3人の友情は途切れることはなく、事あるごとに手紙や電話で連絡するという関係が続いていた。
神も仏もないやんけ。である。この3人の若者が、一体、何をしたというのか???