「がん」という冒険(103)
壁には十字架に架かったイエス様。
教会や礼拝所以外で、私はこれを見たことがない。
教会にある十字架でも、
イエス様がつけられた十字架
と
イエス様のいない十字架だけ
の2種類あるのにお気づきだろうか?
そもそも、十字架の本来の意味をご存じの方がどれくらいいるのだろう。
日本ではペンダントやブローチ、ファッション…に用いられる定番アイテムだが、そもそも十字架は、死刑の道具なのである。しかも、十字架刑は、囚人が木の十字架にくくりつけられるか、釘で打ちつけられるかして死ぬまでつけられる。 死は恐ろしく時間がかかり、非常な苦しみをともなう。十字架刑に比べれば、絞首刑やギロチン、電気椅子などは楽なものではないか。
それを思えば気軽にアクセサリーとして身につけられるものではない。
しかし、この十字架の意味を塗り替えたのがイエス様である。イエス様が無実の罪で十字架に架けられたのは、イエス様が罪人である我々人間の代わりにいけにえとなり、我々の罪をつぐなうため。罪も汚れもない神の子イエスが十字架につけられることで、我々人間の罪を洗い浄めてくださった…というようなことを言っても、信仰のない方にはおわかりいただけないかと思う。
「罪人ってなに?何も悪いことなんかしてないよ」という人も多いと思うが、ここで聖書でいう「罪」の説明をするわけにはいかないので割愛させていただく。
罪も汚れもない神の子が我々人間のために十字架について死んでくださった。その代償として、それを信じる者は死後、滅びから救われて永遠の命を得る。天の御国(天国)で永遠に生きながらえるのである。
イエス様が十字架の上で人間の罪の犠牲となってくださったことで、死刑の道具であった十字架が神の愛と正義を証しするものとなった。
長々と十字架についてレクチャーしてしまい、一体、何を言いたいのかと戸惑われるかもしれない。すんません。もう少し、語らせてください。
ここで、2種類の十字架、つまり、
・イエス様がつかれた十字架
・イエス様がいない十字架
の違いであるが、イエス様のつかれた十字架は、イエス様の犠牲で終わっている。イエス様のいない十字架の方は、十字架上で死なれたイエス様が復活し、今も生きておられることを意味しているのである。ちなみに私の知るところでは、上がカソリック、下がプロテスタントの十字架である。
イエス様のつかれていない十字架を見慣れた私には、イエス様のつかれている十字架は、どうも生々しいのだが、この日は違った。
すぐ近くにイエス様がいてくださる。
不思議な安堵感……。
さて、話をもとにもどそう。
ここはどこかと言えば、双子の娘の長女、αが在籍するカソリック系の★女子大の「会議室」。会議室といってもスチールの白いテーブルに椅子が向かい合わせに並んでいるだけの小部屋である。無機質なその一室の壁に、十字架につけられたイエス様がかかっているのである。
そうして、その会議室の椅子に、娘αをはさんで夫と私が座っていた。座って、★女子大の◆准教授を待っていた。何のために待っているかといえば、面談のためである。何の面談かといえば、
娘αの成績があまりにひどく、このままでは4年で卒業は難しいのではないか?
という思いから、私が大学に問い合わせて面談を申し入れたのである。
面談くださる准教授を検索した夫が、
ガチのドカソリックのえらい人
尼さんのなかの修道院長的なアレ
十字軍とか派遣できちゃう
……などというもので、私は怖気づく。権威とか肩書きとか…苦手である。そんなわけで、十字架のイエス様にすがりながら准教授を待った。
(つづく)