コロナ禍の死…

……と、前回、一ヵ月半ぶりに恐る恐るエステに行き、「また行きたい」という思いが与えられたものの、やはり、いざ…となると腰が引けて、1か月になる。

70歳前後の店長と中年エステティシャン2人の店は、どうなっているのだろう。

これだけ、「ソーシャルディスタンス」やら「濃厚接触」、スキンシップ…がタブー視されているからには、

エステティシャンが(マスクつけてない)顧客の顔を素手で触りまくるエステというのは、敬遠されても致し方なかろう。

逆に言うなら、店側にすれば「閑古鳥(かんこどり)が鳴く」ということである。

店側にしても顧客からの感染は恐ろしいから、対策は可能な限り万全とはいえ、「万全の対策」などはない。

予約のない、電話もかからない70歳前後の店長と中年エステティシャン2人の店番は…どんな思いだろう、と思う。

それは無論、この店に限ったことではない。

コロナ禍のなか、今までの常識がひっくり返り、見通しの立たない様々な「地獄絵図」が展開されている。

これから、どうなるのだろう。

一体、何を信じればいいのだろう。

考えるとキリがなくなるのだが、私には信じる神がいる。

私を愛し、守り、導いてくださる神がいる。

祈ることができる。

それは本当に感謝である。

この夏、私は二人の近しい人を喪った。

一人は男で一人は女だが、どちらも生涯独身で経済的に自立して90歳という年齢で施設に入っていた。

どちらも人格的に明るく、社交性もあったから、孤独ではなかった。私も可能な限り施設に見舞った。

しかし、90歳という年齢は、基本的に一緒に食事をしたり、会話がはずんだり…できるものではないらしい。座がもたず、「一緒にいる」だけだった時間も多かった。

どちらにも、イエス様を信じて「天国行き」を確信して欲しかったが、自分の力で90年生きて来た人達が、神様を受け入れる…というのは、なかなかに難しいことであり、所詮、私の力の及ぶことではないと観念した。

祈るのみであった。

コロナ禍にあって見舞いも閉ざされ、祈りにかけた。

主イエスを信じなさい。

そうすれば、

あなたもあなたの家族も救われます。

使徒の働き 16‐31)

ここでいう「家族」とは、血縁に関係なく、親しい「家族」のような交わりをもつ人を指すという。

この夏亡くなった先生のことも伯母のことも、何年も祈り続けた。

コロナ禍にあって、誰にも看取られない寂しい最期だったかもしれない。

しかし、そこには主がいてくださった。

「天国に迎えられましたからありがとうございます」

泣きながら、訴えるように祈った。

 どちらの葬儀にも出られなかったが、逆に、亡くなった気がしない。

鮮やかな思い出が、困るくらいに溢れる。