追悼 桂歌丸(1)

11日、歌丸師匠の告別式が行われた妙蓮寺は、東横線「妙蓮寺」駅踏切の正面にある。
横浜駅に近い、各駅停車しか止まらない小さな駅である。
が、その日は警備員が踏切で交通整理などして物々しい。
境内に入ると、ファンの献花台が設けられ、行列に並ぶ。白い菊の花を一本取って、祈った。

1936年生まれ。
実家は横浜市真金町の有名な遊郭「冨士楼」。女性の描き方が抜群にうまく、しっとりした芸風は生い立ちと無縁ではないそう。
幼い頃から遊女の所作を目にし、独特の話し方を耳にして育った。
売春禁止法が施行された昭和33年(1958年)まで、真金町の遊郭があった場所近辺は、「永真遊廓街」と呼ばれることもあった。師匠の父親は、3歳の時に他界。母親は、師匠が小学生の頃に家を出て行ってしまい、父方の祖母タネが迎えに来て、祖母と暮らすようになる。
この祖母…
横浜では指折りの遊郭『富士楼』を切り盛りし、当時、遊郭「富士楼」「ローマ」「イロハ」の女主人は、
「真金町の三大ばばあ」と呼ばれて恐れられていたとか。
歌丸師匠の祖母タネも、「三大ばばあ」の一人。
あの穏やかな様子からは想像もできない、劇画のような生い立ちである。
ラジオで聴いた落語にのめり込み、中学3年で新作落語で知られる五代目古今亭今輔に入門。ところが、古典志向だったことで破門状態となり、一時期は化粧品のセールスマンとして働いた。
落語への思い立ち難く、三遊亭扇馬のとりなしで桂米丸の弟子となり、復帰がかなう。
1966年に始まる「笑点」には初回から登場するが、その頃にはまだ二つ目で、真打になったのは1968年だった。
その生い立ちから、鼻に酸素吸入の管を付けながら口演した最晩年まで、調べれば調べるほど、面白い。その上、愛妻家でひ孫に手を取られて穏やかに息を引き取ったというのだから…見事である。

数回にわたって、語りたい。