「当てはずれ」

星野富弘がけがをしたのは6月17日。24歳の梅雨の頃。
その日を境に人生が180度変わる。
体育の教師が手足を動かすこともできない、文字通り、寝たきりになる。
9年という入院期間、
「あれがなかったら俺の人生は違っていた」
「あの日、生徒たちの前で宙返りをしなければよかった」
「大学入試に落ちていればよかった」
「病弱であればよかった」
…過去を遡っては後悔を繰り返していたという。
いっそのこと生まれなければよかった…
いつもそこに行きついた。
「人間にとって一番の苦しみは、『今が苦しい』ということよりも、この苦しみがいつまでも続くのではないかと不安になることです」(「いのちより大切なもの」)。若い分、「いつまでも」は果てしない長さだったに違いない。

見舞いに来た大学の先輩が、
「ぼくにできることは、これしかありません」
と聖書を届けてくれた。
しばらく放置してあった聖書を、ある日、思いきって母に開いてもらい、この言葉と出会う。
「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」
(マタイの福音書 11章28節)
けがをする前には、自分の努力で何でもできると信じ、宗教は弱い人が頼るものだと思っていたのが、
「これは、俺の考えていた宗教とは全然違う」
と思うようになった。最新の医療でも治せない自分の身体、助けてくれる人なんているわけがない。それが正直な気持ちだった。
それが、聖書を読み返しながら、重い心の中に温かい何かが沸いてくるような気がした。それまで生きて来て、初めて味わう感覚だった。
自分は独りではなく、空が、神様が見ていてくれると思うようになった。
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キリスト教「ご利益(りやく)信仰」ではない、と言われる。
「ご利益信仰」とは何か?と問われれば、信じることでご利益がある、幸運を得るというものだろう。
「ご利益」どころか、主イエスを信じる者は「試練」という愛の鞭を与えられ、「砕かれる」のである。しかし、成功や喜び、幸運…が、人間に何をもたらすか?
失敗や絶望、落胆、不運…から、人は色々なことを学び、成長するのではないか???
「確かに、けがをして大変な思いをしました。人にもずいぶん迷惑をかけました。でも、何も起きずに順調に生きている自分を想像すると恐ろしくなります。教師としても、人間としても、何も知ってはいなかったからです」(「いのちより大切なもの」)
「苦しみにあったことは、私にとって幸せでした。私はそれであなたのおきてを学びました」
詩篇119篇71節)
(上はタイトル「空」・かりんの実、下は「当てはずれ」・ツルバラ)